甲陽学院というキーワード

103回大会開会式

 第103回全国高等学校野球選手権大会の開会式は、雨で一日順延となって8月10日に行われた。その日、朝刊を繰っていると第二社会面に「昨夏の夢 医学生バッテリーが始球式」の記事があった。

 昨年の学生(とは限らないが)スポーツ界は、コロナ禍によってズタズタに引き裂かれた。小学校から大学までの、学校あるいはクラブにおけるスポーツ活動は、部やクラブの伝統を受け継いでいるといっても、メンバーは年々更新されるので、毎年が新しいチームとなっている。チームメートの顔だけでなく、チームの個性も技術も試合のやり方も、春はいつでも振り出しから始まる。年々初めにして終わり、これっきりの青春なのだ。

 「悔しさを受験にぶつけて医学部現役入学を果たしたバッテリ―が甲子園で始球式を行う」と記事は続くが、チームプレーの精進と個人的努力を同じ次元で比較できるものではあるまい。ともかく、始球式に登場するバッテリーは昨年度甲陽学院高校野球部員で投手の吉田裕翔さんと捕手の嘉村太志さん。吉田さんは主将で進学先は関西医科大学医学部、嘉村さんは大阪大学医学部である。

上御霊馬場町のころ

 「おっ、甲陽学院野球部か」。記憶がドンと蘇った。

 私は1967年の春、受験に失敗して上洛し、関西文理学院という予備校に籍を置いた。予備校に紹介された下宿先(食事なしの借間)は、上御霊神社そばの旧家の離れ。母屋があって、中庭を挟んで離れがあり(東端の渡りに水洗トイレ)、離れ後ろの空き地にプレハブ2棟があった。離れは区切られて浪人生、プレハブは同志社の学生が入っていた。

 浪人という身分だからカネもヒマもないわけで、この下宿が梁山泊みたいだったなんて、ウソにだって言わないが、それ でも18や19の若造たちだからおしゃべりに興じたりして、それなりの青春譜はあった。

 松江北高校からの目次(めつぎ)君と大分県日田高校からの秋吉君がいた。学校の裏みたいな場所だったから、学校で知り合った色んな若造がダベりにやって来た。和歌山県新宮高校からの山上(さんじょう)君が話す、山の中腹から眺める黒潮話はおもしろかった。

 マンモス予備校だった。たまたま校内で出会った高校クラスメートの宮原君が「学校近くていい」と空室に越してきた。秋には宮原君の知り合いで防衛大学校を退学した神八君も越してきた。

甲子園優勝校

 最後が甲陽学院野球部出身の穏やかな顔をしたカレだった。カレはそれまで西宮から電車で通っていたが、「時間がもったいない」と、秋が終わりそうになったころ入居してきた。私はカレから「甲陽中学は甲子園で優勝したことあるんだぜ」を聞いた。

 「野球部の部室に賞状が飾ってあった」とか言う。ま、その写しなんだろうけど、「いつの優勝校なんや?」。カレはそれなりに答えたと思うが、半世紀以上も前の記憶が私に残っているはずもない。そこで、調べてみた。

 甲子園優勝校は間違いだった! 甲陽学院高校の前身校である甲陽中学は、たしかに全国中等学校優勝野球大会で優勝した。大正12年(1923)第9回大会のことである。準優勝校は和歌山中学。しかし球場は鳴尾球場だった。甲子園が完成し中等学校や高校野球のメッカになったのは、翌1924年以降のことである。

 ともかく優勝校であった。“甲子園優勝校”と言っても、強ち誤謬とは言い切れないことは認めよう。甲陽中の大会出場は、このほか昭和3年(1928)14回大会ベスト8、昭和5年(1930)16回大会、昭和13年(1938)24回大会ベスト4の、通算4回。惜しむらくは戦後の新制高校となっての出場がないことである。なお、兵庫県は地元でもあり第1回大会からの単独県代表出場である。

いにしへの強豪校

 調べついでに、わが出身校である佐賀西高校のことも記したい。全国の都道府県が単独代表を出すようになったのは、第60回大会(1978)以降のことである。佐賀県の学校が予選に参加したのは第5回から。前身校の佐賀中学は、大正11年(1922)8回大会から12年(1923)9回大会及び13年(1924)10回大会まで3年連続して九州代表校として、昭和2年(1927)13回大会・3年(1928)14回大会・4年(1929)15回大会を北九州(福岡・佐賀・長崎)代表校として出場した。そして戦後、新制佐賀高校は昭和33年(1958)40回大会を佐賀県代表校として出場した。通算7回出場したけれど、通算戦績は7戦全敗である。

 佐賀高校は昭和38年(1963)佐賀西高校と佐賀北高校に分離した。私は64年入学とともに応援団に入部(頼まれて陸上部と茶道部そして文芸部の名簿にも載っていた)して豊かな(?)高校生活を送った。スポーツ各部の応援に出向いたが、中でも野球部の公式戦は皆勤した。3年夏の長崎大橋球場の西九州大会までは行った。甲子園は目睫の間に迫ったけれど、あと僅かで去って行ってしまった。

 私はむろんタイガースファンである。1985年には後楽園や神宮に行ってシャカリキに応援し、とどめは西武球場での「六甲颪」大合唱であった。甲子園にはまだ足を踏み入れていない。かつて、応援団責任者として「母校が甲子園に出るまでは行かない」と見得を切ったからだが、こっそり行くには遠く、もう行くこともないだろう。

雲煙万里の彼方

 カレの顔は覚えているのだが、2~3か月の淡い付き合いだったので、名前がどうして思い出せないのである。まだ共通1次試験のない国立大学入試一期校・二期校の時代だった。正月休みを兼ねて受験校見学に行ったカレは、東北大学の広さに感激し、静岡大学浜松キャンパスもいいところだったと話していた。2月となると浪人生は東京とか九州とか受験旅行が始まり、いつの間にかカレはいなくなってい

 目次君は関西大学に神八君は大阪大学、宮原君はさらに1年遊んで早稲田大学に進学した。秋吉君と山上君のその後は知れない。カレはどっかの理系に進んだと思われる。

 余話めいた話をすれば、甲陽学院は、清酒「白鹿」製造元の辰馬本家酒造株式会社のオーナーが往昔つくった、辰馬育英会によって設立されたものである。現社長の何代か前の社長に辰馬力氏(1896~1981)がいらして、当時私が働いていた日本酒造組合中央会の会長(在任1972~78)をされていた。酒席での思い出話によれば、学生時代は慶応義塾の野球部員だったとか。明治の末から大正のころ、夏休みは野球競技の啓蒙普及に全国の中学校を行脚してまわったそうである。「秋田中学なんて僕らが野球をイチから教えたんですよ」と楽しそうに語られた――オッ、鳴尾球場の第1回大会決勝戦は「京都二中2-1秋田中学」ではなかったか。ここでまた、ちょいと甲陽つながりとなったな。

 さて、2021年8月10日     朝の始球式。甲陽学院高校OBの吉田投手と嘉村捕手のバッテリー、ボールは大きくそれてワンバウンドでキャッチャーミット。キャッチボールのやり過ぎで肩を痛めたか、それとも83年ぶりの甲子園マウンドに先輩の感動が乗り移ったか。まぁ、好としようではないか。

 いろいろ雲煙万里である。

TOSHIHIRO IDE について

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