相澤淳の『山本五十六』を読む

戦後日本の「通説」

 中公選書新刊(23/03/10)の『山本五十六——アメリカの敵となった男』を読んだ。

 著者は防衛大学校卒業後に上智大学大学院博士後期課程に進み、20年前にその戦史研究の成果を『海軍の選択——再考真珠湾への道』(中公叢書)として上梓している。刊行の趣意は、帝国海軍の伝統である「英米との協調」により最後まで開戦に反対してきたといわれる海軍が、いかなる経緯で戦争を決意したかのトレースである。

 実際の日本海軍は英米との協調の象徴であった軍縮体制を最終的に廃棄し、日中戦争の中で対英米戦に向けた体制づくりに邁進していたのである。これらは従来一部強硬派の突出とされていたが、本書刊行により海軍全体を通した「英米との対峙」から「真珠湾への道」が史料的に裏付けられた。今回の出版は連合艦隊司令長官として、開戦劈頭ハワイ真珠湾を急襲して米国民の肝を縮みあがらせ、日本国民から名提督と絶賛された山本五十六の人物に焦点をあて、彼の頭脳の中を追いかけた「戦史」といっていいだろう。

 先の大戦における数多の戦死者の中で、筆頭の有名人は山本五十六であろう。1943年8月18日ブーゲンビル島上空で、待ち伏せていた米軍機に機銃掃射されて散華した。位階階級は正三位大勲位功一級元帥海軍大将。戦前で皇族のほか国葬とされた唯一人である。そのためか、あることないことの美談にあふれている。

 その最たるものが、——1941年12月の開戦。山本五十六は「対米戦は必ず敗北する」との信念をもっていたので、その回避に全力を傾けて努力した「良識ある軍人」であった。しかしながら、職責は果たさなければならない。海軍航空戦力の全力を賭しての敵太平洋艦隊殲滅に、必勝の戦術を考案して真珠湾を炎上させたのである。

 結果、在舶の戦艦や航空機などはほぼ全滅させたが、肝心の航空母艦などは演習に出ていて不在。米軍の戦死者3,500余名。この「卑怯なる騙し討ち(snake-attack)」に全米の世論は激昂し、直ちに対日宣戦布告を決議した。山本はまさに「悲劇の提督」となってしまったのである。

海軍の罠、日本人の情感

 相澤淳が山本五十六に大きな関心を持つようになったのは、1970年に公開された映画「トラ・トラ・トラ」に描かれた連合艦隊司令長官としての山本像にあった。映画における山本は「最も勇敢に戦争に反対しながら、自ら対米戦争の火蓋を切らなければならなかった」軍人であった。また、阿川弘之の小説『山本五十六』(初版1960、新版1969)を中高生時代に読むにつれ、イメージは胸に焼き付いていった。

 それらは戦後日本に風靡した「本来日本海軍は対米協調主義だったのであり、戦争には反対であった」という“通説”が大きく影響している。阿川の作品は、戦後になっての文書渉猟や山本の同郷や海軍における知人からの取材を基にしている。その一つとして山本出身地の後輩反町栄一は『人間 山本五十六』上・下(光和堂、1956/57)という伝記での中で、

「思えば、元来開戦に極力反対であった元帥が、事志と違い、遂に彼の大戦となり、しか    も運命の定むるところ海軍の総帥として、全国民の与望の下に皇国の興廃を双肩に担い、遠く閫外の大任に当る。(中略)想うて往年元帥の心事に到れば非絶壮絶、千古の正気凛として胸を打つものがある。嗚呼、山本元帥!」と、記した。。

 郷土の偉人に酔い痴れて、感傷に溺死する寸前といった情況である。戊辰の砌、長岡藩は武装中立を掲げる河井継之助の掲げる義に同心して薩長新政府軍と戦い、敗れて町は灰燼となり多くの犠牲者を出した。義は義としても、民百姓を思えば、為政者が青年客気に逸るべきではなかったはずである。

 戊辰戦後に藩の大参事に就いたのが小林虎三郎。支藩三根山藩から贈られた救援米百俵を、彼は目先の飢えを癒すためでなく、開校したばかりの藩学国漢学校の資金に注ぎ込んだ。学校は藩士のみならず百姓町人の子弟にも開放され、長岡近代教育の基礎となり多くの人材を輩出した。藩士高野貞吉の六男五十六もその一人である。これらが山本有三の『米百俵』にまとめられて新潮社から出版されたのは1943年である。

 明治新政府が信越本線長岡駅を長岡城本丸跡につくったのは1898年。旧藩城下町にある旧国鉄の駅舎が、煤煙や操車場の配慮から町外れにつくられていることを思うと、「賊軍をかくもいたぶるのか」と日本人のレベルが情けない。長岡では「米百俵の精神」は今にいたるも健在である。ちなみに行年90歳で身罷った作家の半藤一利も藩士の裔、東京大空襲後に疎開して長岡中学校に転校・卒業している。

 半藤は大卒後文藝春秋新社に就職、坂口安吾の原稿取りから出発し、伊藤正徳の担当ともなって戦争体験者の取材に全国を奔走した。そこで学んだことは「歴史の当事者は嘘をつく」であったと述懐している。

 考えてみると、開戦時の阿川弘之は大学2年生。1942年に繰上げ卒業して海軍予備学生、43年海軍少尉、45年ポツダム大尉で復員である。海軍予備学生口述試問の際、志望動機を訊かれて「陸軍が嫌いだから」と答えた。首尾よく海軍に入り、学生時代に中国語の単位を取っていた機縁で中国での諜報要員となりドンパチを免れる。将校であり従兵もつく。若造の海軍贔屓は舞い上がるばかりとなる。山本五十六は名将にして尊い戦死者、神の如く拝跪する存在だったに違いない。

 敗戦後、山本の伝記小説を思い立ち、海軍諸兄に取材して話を聞く。山本の痛快、海軍の爽快。精魂込めて書き上げた。欣喜雀躍であったろう。すでに世はアメリカ世。誰がアメリカを悪しざまに論難しようぞ。アメリカも好し、山本も立派に戦った。海軍だって頑張ったのだ。すべては陸軍がメチャクチャにしてしまったのである……。

 阿川が『山本五十六』をg運上梓したあと、矢も楯もたまらずブーゲンビル島に赴き、搭乗機の墜落現場に於て、「山本元帥! 阿川大尉が参りました」と申告した際の懐いは想像できる。だがそれは一人の夢想家の主観でしかない。

 一方、相澤は大学や大学院で近代日本の政治・外交・軍事を学び、これらの知識を吸収しつつ考える中で、海軍の「通説」を疑問とするようになってきた。そして、その反論を試みたのが『海軍の選択——再考真珠湾への道』だったのである。

山本の転回と陸海軍人事の混迷

 山本五十六に焦点をあてて「通説」を再検討したのが今回の書である。「歴史の当事者は嘘をつく」。誰が自らの失敗を吐露するであろうか。皆が敬慕している先輩の実像を、誰が忖度することなく饒舌にしゃべることができるのだろうか。自らの属していた組織を挙げてのカムフラージュ大作戦のことを知っていればこそ、虚飾を以て真相を隠蔽することこそ組織への忠誠となる。

 本書はペリー来航に遡る日米関係を山本の対米認識で辿り、ロンドン軍縮会議における海軍随員としての全権への進言書、また松岡洋右の外交が対米政策に与えた影響など、視界を広くとって分析している。山本の中堅海軍将校としての意気は他を凌駕するものがある一方で、二度にわたるアメリカ駐在武官として獲得した知識は国家の期待を裏切った。

 戦争はミリタリーだけで出来るものではない。統帥権の独立が陸軍の暴走を招いたというが、旧憲法でもそんなことを許してはいない。日本人が日本語を了解できなかっただけである。言語よりも、居丈高な脅しが事実となった。日本語よりも物理的暴力が日本を動かした。こんな国が滅びるのは昔も今も当然である。

 ミリタリーは目先しかものが見えない動物である。シビリアンが人間として尊いとは思えないが、知識の幅と奥行きが異なる。学際(interdisciplinary)横断的な人間性が要求されよう。文明思想に基づく歴史観を背景にした決断が不可欠である。

 貧乏国の日本が期待を負って山本に米国駐在を課したのは、アメリカへの敵愾心を掻き立てるためではあるまい。「米国人の根性(=Yankee Sprits)の心底を見届けよ!」の目的のためである。友となりうるか、敵となすべきか。彼らは軟弱なのか、頑強なのか。武人たるものそれを見定めることこそ第一の使命たるべきである。山本は僻遠卑陋の田舎者を脱することができなかったのであろう。米国人が博学洒脱だったというのではない。だが彼らは自らを田舎者と認めて、知識の自由と平等を希求した。

 開戦と時を同じくして、日本では敵性語が禁圧され、知識人は召集されて真空地帯でズタボロにされて餓死し、あるいは特攻兵器に騙されて乗せられ藻屑との化した。アメリカでは日本語習得熱が高まり、学科専攻に適応した兵種が創設されてインテリが殺到した。日本国憲法24条両性平等規定の草案GHQでつくったのは、ベアテ・シロタ・ゴードンという23歳の女性である。彼女は6~15歳までを東京で暮らした。この自由闊達を見よ、である。

 昭和戦前、日本軍部の状況は進取溌剌ではなく腐った水の淀溜りといっていいようである。それはトップ人事を見れば一目瞭然。陸軍の16代参謀総長は伏見宮博恭王(在任:1932/02/02~1941/04/09)であり、海軍の14代軍令部総長は閑院宮載仁親王(在任:1931/12/23~1940/10/03)なのである。これは驚いた。

 明治天皇は皇族男子に皆軍人たるべしと命じた。ヨーロッパの王室では今も恒例となっていて不思議ではないが、皇族にとっては多くの名誉職のひとつみたいなものである。ところが日本ではそうでもなかった。敗戦まで専従で、戦死・原爆死・飛行機事故死などがいる。さすがに戦犯死はいないが…。

 名誉職みたいな皇族出身の連隊長とか師団長はいてもフシギではないが、それでも平時に限っての話であろう。作戦を掌握する軍令トップの参謀総長や軍令部総長を皇族が勤める、——国民皆が昼寝を享受できる数百年の天下泰平が正夢ならともかく、絶対にありえない妄想である。

 皇族の賢愚を論じているのではない。雅楽・外交団接待・歌会始・講書始・宮中晩餐会・園遊会・内外視察など、彼らは時間的に多忙なのである。欧州留学と称して英仏で暮らし、自動車事故で死んだって暇ではないのだ。陸軍大学や海軍大学のわかるはずもない戦略戦術の研究、新しい武器や武装への習熟とか(これもムズイ)。明治以来の皇族で戦争を語った者は皆無である。昭和天皇の発言記録あたりに、戦果挙がらずにヤキモキしたのか侵攻先挙げて訊ねた内容があったように記憶するが、本当だったら侍従武官も当惑したであろう。軍務・軍令は皇族の片手間にできる職務ではあるまい。

 山本が専らにしたものはなんだったか? 海兵を出て任官する、砲術学校や水雷学校に行った。海外駐在に軍縮会議随員、大いに全権を突き上げたが思い通りならない。条約派なんかになるものかと、憤懣を艦隊派として生きようとした。大艦巨砲の待ち伏せ迎撃戦略が制空権なき海面で実現できるはずもない。航空機派に転回した。そうであっても、腐臭因襲渦巻く帝国海軍は大将ごときの思惑なんか相手にしてくれない。いっそ辞表を叩きつけて予備役に去る選択もあったはず。それでも軍人は現役に恋々としたいのであろうか、観戦よりも実戦に身を置きたい、と。

結語

 現代に生きる私は、戦前の「数千年の神の国」といった奇想天外の教育を受けてはいない。それでも、同年代超の人々はその奇天烈な教育を物心がつく前に受けたのかと思い至ったときには身震いした覚えがある。山本五十六はアメリカに対する敵愾心は旺盛に持ったが、「日本人がこんなヤツと戦うなんて、まだ〇十年はやい」とは思わなかった。それを肉体化していたら、日本の戦後はずいぶん違ったであろう。日本人は単純で幼かったのである。

 なお、筆者である相澤淳の簡便なスピーチに「イノベーターとしての山本五十六」があるので、ご一読をお勧めしたい。

→ https://www.mod.go.jp/asdf/meguro/center/img/75aizawa01.pdf

TOSHIHIRO IDE について

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