ラビリンスの秩父

(承前)

秩父が仏国土と思われたのは、山々に囲まれた閉鎖空間であったこともあるが、宗教的風土も濃厚だった。江戸後期の文化文政のころ、小字の数818に対し神社祠は1,280という記録が『新編武蔵国風土記稿』に遺っている。地域住民が祭祀しているものであって、路傍の石祠は入らない。

これだけ多くの神々に囲まれ、年中飽くことなく祭礼に傾(かぶ)いていれば、生活はおもしろいことだらけではないだろうか。ラビリンスではなく、むしろワンダーランドかもしれないが、巡礼の合間に読んだ本から興味深い話を紹介したい。出典は主に『秩父大祭――歴史と信仰と』(千嶋寿:埼玉新聞社1981)によった。

武蔵国号の神

武甲山の頂上宮鳥居の右横に武蔵国号神の碑があることは以前書いた(「武蔵国号_神」2007/02/15)。その後調べたら、石碑は近代になってからの捏造であることがわかったが、幼稚な悪戯みたいなものだから放っておいた。わが不明を恥ずる意味も含めてはっきりさせようと思う。

前述の『風土記稿』は、武甲山の由来の中で「大和本紀にはこのように記されている」と書く。むろん、説明の一つであって事実史料ではない。「本紀」の原本は失われているそうだが、寛文8年(1668)の写本である。

“武蔵国者。当国秩父嵩(ちちぶだけ)ハ其勢、鎧(よろい)武者怒立躰(いかりたつてい)也。依之、此国人ハ心武(たけき)也。日本武尊東夷征罰ノ為ニ下向シ賜フ。彼ノ嵩ヘ詣(もうでて)テ御覧(おんながめ)メ、吾朝ノ人ノ心武事此御嵩ノ故也。依吾ハ凶徒ヲ随ル大将軍タリ。然レバ為御祈祷(ごきとうをなす)トテ、所持シ給ケル兵具ヲ彼ノ妙嶮大菩薩ノ御嵩ニ納埋(おさめうずめ)給ケル。彼武具ヲ岩蔵ニ篭(こめ)ラル。故ニ号曰(ごうしていわく)武蔵ト。又武具ヲ指置(さしおく)ト有仰(おおせある)故ニ云”

これに対して、江戸の商人でエッセイストであった斎藤鶴磯は自著『武蔵野話』の中で、ヤマトタケルが登山したのは武蔵御嶽山と力説している―――武蔵御嶽神社も国号神と言う所以ともなっている。だが、引用文では妙嶮大菩薩ノ御嵩(ママ)(=妙見大菩薩の御嶽)といっている。青梅の武蔵御嶽は蔵王権現で、本地は釈迦・弥勒。千手観音とされるから、交わるところがない。

(*東京側の見解はこちら)。「岩蔵鉱泉と関連地との位置関係」→

http://okachan.blue.coocan.jp/nanatsuyu/01iwakura/0102ooiwa/iwakura2.html

だからといって、武蔵国号の山は武甲山だと結論するのではない。秩父の古名が知知父であることは、平安初期に編纂されたと伝わる『旧事紀』(くじき)巻10の「国造本紀」の次の文による。

“瑞垣朝御世八意思金命十世孫知知父彦命定賜国造拝大神”――みずがきのみ かど〈崇神天皇〉のみよ、やごころおもいかねのみこと、十せいのそん、ちちぶひこのみことを、くにのみやつこと、さだめたまう、おおかみを、いつきまつれ――

定説はないが、武蔵国は知知父と无邪志を併せて成立したものといわれる。无邪志となってから武蔵となったかどうか、ともかく武蔵国となったのは和銅6(713)年以降である。この年「諸国郡郷名著好字令」が出された。好字二字令ともいい、漢字の音を借りて表してきた全国の地名を、字義に踏まえて佳き字二つで表記せよ命じたものである。長安とか洛陽とか、唐に倣へと。火の国は肥前と肥後に、毛の国は上野と下野という具合である。

これより先、702年ころではないかと思われるが、自称していた国名も「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」と『旧唐書』東夷伝にある。「倭という字はチビということですよ」と誰かが言い、それはイカンと字の選択が始まった結果である。

つまり、武蔵は先ではなく最後なのである。武甲山も御岳山も国号とはなんの関連もない、詮索すること自体がムダなのである。もっとも遅くにやって来た者が最後の勝利者をきどって、歴史と伝統のすべてを担っているように振る舞うことは凡愚の通例といっていい。

武甲山の山名

武甲山と武蔵国とは、名称においては何のつながりもない。歴史的に武甲山の名の変遷を閲すれば、嶽(山)→知知父嶽→祖父ヶ嶽→武光山→妙見山→武甲山となる。

名詞が分類用語から特定され固有名詞に転化されるのは階梯がある。始まりが女と男であるとして、次の段階は(だれもが美人とみる女をミス○○と呼ぶように)もっとも優れた女性が“女”となるだろう。ここまでは人々の価値観は多様化していない。多様化していくと(真間の手児奈のように)場所を特定する冠詞がつくが、いい女なればこそ権力者を誇示する――あたかも目的格のofのように――名乗りがつく。

そもそもは山である。といっても、盆地の中央にある高く大きな山である。嶽(たけ)を解字すれば山+獄の形声、音符の獄は人を押さえつける牢屋、人を圧するような険しい山となる。この山の様態、嶽たるにふさわしい。それから、地名を冠しての知知父嶽(ちちぶたけ)となった。

祖父ヶ嶽(おおぢがたけ)となったのは大宝3(703)年以降である。大和朝廷が地方(=国造)連合国家から、曲がりなりにも中国を模倣した中央集権国家体制に移行し、大宝律令(701)による初代の国司が武蔵国に赴任した。武蔵守の名は引田朝臣祖父(ひきたのあそみおおぢ)。臆面もなく武蔵随一の山に自らの名を被せた。

武光山(たけみつやま)は武蔵七党の一である丹党が秩父に勢威を振るった10世紀からの名である。丹党は平安後期から28代宣化(せんか)天皇の裔である丹治比(たじひ)氏の流れを汲むと称し、武士勃興期の秩父から児玉入間両郡などを勢力圏とした。

幸田露伴は明治31(1898)年に秩父を歩いたが、のちに発表した『知知夫紀行』の中で、武甲山の国号伝説を一笑に付したあと、武光山ついては秩父を支配した初代が丹治比武信で子が武経だから、どこかに武光がいた可能性があるだろうが文献に出てこないと8月7日に記した。8日の夜、人けのない三峰山上の宿坊で、

“夜の食を済ませて後、為すこともなければ携へたる地理の書を読みかえすに、『武甲山蔵王権現縁起』といふものを挙げたるその中に、六十一代朱雀天皇天慶七年秩父別当武光同其子七郎武綱云々といふ文見え、また天慶七年武光奏し奉りて勅を蒙り五条天皇(疑はし)少彦名命を蔵王権現の宮に合せ祀りて云々と見えたり。さてはいよいよ武光といふ人もありけり、縁起などいふものは多く真とし難きものなれど、偽り飾れる疑ありて信とし難しものの端々にかへって信とすべきものの現るる習いなる”

かな、と思ったのだった。(cf.天慶7年=944年)

武光山が転訛して今の武甲山となるのであるが、その前に妙見山と呼ばれる時代がある。秩父神社に妙見菩薩が合祀されたのは13C末~14C初と推定されている。鎌倉末期から南北朝の混乱期に、丹党は秩父の支配から撤退していったのである。そのことを示す史料は刀剣の銘にある。

(1)東京国立博物館にある国宝の脇差“謙信景光”、銘は「元亨3(1323)年3月、秩父妙見大菩薩、備州長船景光」。

(2)御物の刀、銘は「正中2(1325)年7月、秩父大菩薩、願主武蔵国秩父郡大河原入道沙弥蔵蓮同左衛門尉丹治朝臣時基、於播磨国宍粟郡三方西造之、作者備前国長船住左兵衛尉景光進士三郎景政」。

(3)広峯神社の国宝の宝刀、銘は「嘉暦4(1329)年7月、広峯山御剣、願主武蔵国秩父郡住大河原左衛門尉丹治時基、於播磨国宍粟郡三方西造之、作者備前国長船住左兵衛景光進士三郎景政」。

現存する日本刀の頂点といわれるこれらの刀剣は、同じ願主と作者によってつくられた一連のものである。銘は鎌倉幕府瓦解寸前の時期に丹党の有力御家人が(本貫秩父に足場を置いたままで)姫路に転じたことと、秩父に妙見信仰が定着していることを教えている。

妙見信仰は明治の神仏分離令まで続き、今も形を変えて継続していると言っていい。信仰が廃れたから武甲山になったのではなく、時間の経過とともに武光山の由来が影薄くなり、国号伝説の誕生もあって江戸中期以降にブコウサンへと変わっていったのであろう。

妙見信仰と札所

国造本紀にある崇神天皇は記紀の10代天皇であり、3~4世紀ころ実在したらしいといわれる。「秩父大宮妙見宮縁起」には、

“允恭天皇の三十四とせ丁亥(ひのとい)――今享和二年まで一三六五年になりぬ――に、命(みこと=知知父彦命)の九かえりの遠つ世継の狭手男臣(さておのおみ)をあげもうふして、詔旨を蒙りたうして、遠き御祖(みおや)の御璽を葉葉染(ははそ)の杜にまつられ給ふ、此の時始めて知知父神社と称(とな)へまつろひ給ふ也”

とある。享和2年は1802年、葉葉染は母巣あるいは柞と記し、コナラでもある。

札所15番母巣山少林寺は、神仏分離以前に神社境内あった母巣山蔵福寺が移転したものであり、柞の杜は社殿後背の大きな森の名とともに秩父神社の代名詞である。柞の名は知知父の対語である。乳の実の父の命は柞葉の母の命(ちちのみのちちのみことは、ははそばのははのみこと――万葉4164)、音の糸繰りによって父や母の枕詞となった。

遠つ世にあって、柞の杜は神が降臨する広大な磐座(いわくら)だった。戦国から江戸時代、神職たちは何度も宮居の修築といって森の樹木の売却を策した。そのたびに秩父の人々は疫病を怖れて醵金し企みを阻んだ歴史がある。ビジネスに携わるプロには畏敬心がないのであろう。

さて、妙見菩薩の合祀であるが、縁起に嘉禎元(1235)年秋9月火雷で社殿消失とあり、再建の際に妙見菩薩が合祀された推測されている。妙見とは北天の真中にあって動くことのない北極星(=北辰)のことである(また北斗七星でもある)。古代思想での天の上帝と同一視されたことから、儒仏道が混淆されて、運命を司り国土を守護する神仏として信仰された。妙見の眷属または神使とされるものは北方を守る玄武(蛇と亀の合体)である。

わが国においては、八幡神や諏訪神と同じく、武運長久の神として武士の勃興と歩を一にして広く浸透した。秩父神社への妙見合祀は鎌倉幕府による治世の安定だけでなく、坂東三十三ヶ所に倣う観音霊場札所の成立と密接に関連する。

いま、手元に秩父商工会議所が発行した「ちちぶ浪漫壽娯録地図」がある。図には右から左に、秩父神社から秩父公園亀の子石を結ぶ太いラインが〈秩父夜祭信仰軸〉と引かれている。ラインの右は真北、左は真南である。ラインを左に伸ばした先にあるのは武甲山頂、そして…。

右に伸ばした先には17番定林寺があり、さらに先には20番岩之上堂がある。定林寺は少しズレている。正しくは秩父霊場が開かれた当初の1番定林寺があった場所が真北である。そして、その延長に当時も今も唯一順号の変わらない(北辰のような)20番が位置する。

札所20番から17番に至るラインの延長上に秩父神社がある。にらむ方角は真南の武甲山。母巣の森にいます秩父妙見は女性であり、蛇の化身ともいわれる女神でもある。一方、武甲山の神は亀であって男神だという。夜祭は七夕のように、年に1度の雄神雌神の交合の宵なのだとも。また、女性的な観音信仰と、男性的な山嶽信仰を結ぶものとしての妙見信仰があるということもできる。少なくとも、妙見合祀は観音霊場開設の触媒となったことは間違いないと思われる。

ちなみに、17番定林寺は近世まで妙見社人でもあった丹生氏が管理していて、明治後林氏に改姓して北海道に移住したという。20番も社人であった内田氏が管理していて、こちらは熊野三社権現であった。セメントの原料で崩される前の武甲山は高さ1336mで、3つの頂きがあったという。「秩父志」によれば、高い方から順に大通竜奥社、蔵王権現社、熊野三社権現があった。

北緯36度線と秩父大祭

千嶋寿は『秩父大祭――歴史と信仰と』のなかで、北緯36度の東西線について詳述している。諏訪と秩父と鹿島の一線である。諏訪大社の健御名方(タケミナカタ)、秩父神社の八意思金(ヤゴコロオモイカネ)と鹿島神宮の建御雷(タケミカヅチ)である。

諏訪は大国主の次男で最後まで朝廷に抗戦し、諏訪に追い込まれて降伏した。追い込んだのは鹿島に祀られた。秩父は天岩戸や天孫降臨に顔を出すが、それほどの英雄でもない。共通するのは中世以後に武神となったことくらいで、それも後世の人の思い込みからである。

北緯34度32分の東西線というのがある。淡路島の舟木にある伊勢の森――大和三輪山そばの箸墓――伊勢の斎宮館(近くの外宮・内宮)――神島の線。それとの対比の中で、筆者の構想は広がっていくが、読者はどこまでついていけばいいのかわからない。縺れた糸が解けないのでスッキリしないけれど、だからこそラビリンスであっておもしろい。

11月も晦日に近い。今年も秩父の冬祭りが迫ってきた。この祭りの情趣は夜祭の花火や喧噪ではなく、しっとりした艶冶にある。そのことは前に書いた(「秩父の冬祭り」:2010/12/08)。

驚くことはこの祭り、江戸の中期から盛大に行われ、しかもビジネス・コンベンションとパラレルに挙行されていたことである。大商いをやりながら、ビッグページェントをこなすのである。その能力とエネルギーは想像もつかない。

冒頭でふれた斉藤鶴磯の『武蔵夜話』は、次のように記す。

“霜月朔日より六日まで、毎日大宮の町に市たちて、上毛・下毛・信濃・尾張・江戸・諸国の商人いりこみて売買す。其繁栄なる事なかなか筆紙に述がたし。、引あげんとして、畑の中を踏通り、挑灯をともしつれ、其群集十町四方白昼のごとく、実に譬んかたなし。”(文化13年1813)

なお、市は「絹大市」と呼ばれ、もっとも繁華だったのは享保16(1731)年で、3~4の両日で絹9,894疋が商いされた。次が安永元(1772)年7,414疋 4,784両である。

さあ、今年も出かけるとするか。

(了)

TOSHIHIRO IDE について

九州産の黒豚 山を歩きます 乗り鉄です 酒と女を愛したいと思った過去もあります 酒の需要能力は近ごろとみに衰えました 女性から受容していただける可能性はとっくに消失しています 藤沢周平や都はるみが好きです 読書百遍意自ずから通ずであります でも夜になると活字を追うのに難渋しています  
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ラビリンスの秩父 への2件のフィードバック

  1. 武甲泰平 より:

    素晴らしい!
    いろいろとお話伺いたいです!

    いいね: 1人

    • TOSHIHIRO IDE より:

      これは午歳総開帳の歩き巡礼の徒然、読んだり考えたりしたことを書き留めたもの。秩父札所巡礼は2008年の子歳開帳が最初で、その3年前に母を、前年に父を見送って、菩提を弔おうと歩きました。34か所歩けばほぼ100㎞、仏心もつきますが爽快さはたとえようもなし。2020年子歳も期待しましたが開帳はなく、今度は2026年となります。さて歩けるかどうか。(武甲山頂にソーラー・バッテリーのサーチライトを設置して北辰を照らす。これからの秩父のシンボルにしたいものです。)ありがとうございました。

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