人間の本性は善か悪か

 若かったころ―—中学生や高校生時代は、諸子百家とかの概説書レベルの本を眺めて、「人間の本性は善か悪か」を思ったものである。もっとも、春秋に富む身であったからか、「そんなもの善に決まっているだろう」で、バッサリの決定である。考えるまでもなく、「本性が悪だったら、人類がいま、生きているわけがない」のである。いつの世でもひねくれた奴はいる。根性の腐った奴もいる。いつだって悪漢も大勢いた。それでも人類は永続してきたではないか、である。

 その気持ちは大学時代も、社会人になってからも変わることはなかった。無謀な戦争を始めたドイツや日本の権力者の悪辣さや、国民の愚鈍な付和雷同も冷静に観察できた。あるとき、目が覚めれば善と悪の区別はできるのである。愚かな眠り、それは権力の催眠剤によるか、民の寝落ちなのか。それとも、国民自体の賢愚の問題なのであろうか。

 進化論とは生物は必然に進化するという学説である。進化に善悪の概念を含むとすれば、少なくとも人間にあっては、悪から善への進歩があってしかるべきはずであった。しかしながら、世界に戦争は止まない。敵と味方はそれぞれの正義を振りかざして、相手を殲滅せんと殺し合う。これらは義ではあるまい。それぞれが我利を貪ろうとしているだけである。

 2023年は地球沸騰化の初年であった。また、地質年代として人新世(じんしんせい)が1990年から始まったことが認証された年でもあった。人類は地球の地に禍々しい禍根を遺したのである。それは人類の滅亡後も、地球という星が消滅するまで刻みこまれた、悪の表象なのである。

 ともかく、人の性は悪か否か、聖哲古人の言を読んでみようではないか。

性悪説                     荀子

人之性惡、其善者僞也、今人性、生而有好利焉、順是、故爭奪生而辭讓亡焉、生而有疾惡焉、順是、故殘賊生而忠信亡焉、生而有耳目之欲、有好聲色焉、順是、故淫亂生而禮義文理亡、然則從人之性、順人之情、必出於爭奪、合於犯分亂理、而歸於暴、故必將有師法之化、禮義乃道、然後出於辭讓、合文理、而歸於治、用此觀之、然則人之性惡明矣、其善者僞也、

故拘木必將待檃栝烝矯、然後直、鈍金必將待礱厲、然後利、今人之性惡、必將待師法、然後正、得禮義、然後治。今人無師法、則偏險而不正、無禮義、則悖亂而不治、古者聖王、以人之性惡、以爲偏險而不正、悖亂而不治、是以爲之起禮義、制法度、以矯飾人之情性正之、以擾化人之情性而導之也、使皆出於治合於道者也、

今之人、化師法、積文學、道禮義者、爲君子、縱性情、安恣睢、而違禮義者、爲小人、用此觀之、然則人之性惡明焉、其善者僞也

【訓み】 「性悪説  荀子」

人の性は惡、其の善なる者はなり。いま人の性は、生まれながらにして利を好む有り。是に順ふ、故に爭奪生じて辭讓亡ぶ。生まれながらにして疾惡有り。是に順ふ、故に殘賊生じて忠信亡ぶ。生まれながらにして耳目の欲有り、聲色を好む有り。是に順ふ、故に淫亂生じて禮義文理亡ぶ。

然れば則ち人の性に従ひ、人の情に順はば、必ず爭奪に出て、分を犯し理を亂すに合して、暴に歸す。故に必ず將に師法の化、禮義の道有りて、然るのち辭讓に出て、文理に合して、治に歸せんとす。此を用て之を觀るに、然れば則ち人の性の惡なることは明けし、その善なる者は僞なり。

故に拘木は必ず將に檃栝烝矯を待ち、然るのち直からんとし、鈍金は必ず將に礱厲を待ち、然るのち利ならんとす。いま人の性は惡なれば、必ず將に師法を待ち、然るのち正しく、禮義を得、然るのち治まらんとす。いま人師法無くんば、則ち偏險にして正しからず、禮義無くんば、則ち悖亂にして治まらず。古者聖王、人の性の惡なるを以て、以て偏險にして正しからず、悖亂にして治まらずと爲し、是を以て之が爲に禮義を起こし、法度を制し、以て人の情性を矯飾して之を正し、以て人の情性を擾化して之を導きしなり。みな治に出て道に合せしめなり。

今の人、師法に化し、文學を積み、禮義道る者は、君子爲り。性情を縱ままにし、恣睢に安んじて、禮義に違ふ者は、小人爲り。此を用て之を觀るに、然れば則ち人の性の惡なることは明けし、其の善なる者は僞なり。

( 「せいあくせつ じゅんし」 ひとのせいはあく、そのぜんなるはいなり。いまひとのせいはうまれながらにしてりをこのむあり。これにしたがう、ゆえにそうだつしょうじてじじょうほろぶ。うまれながらにしてしつおあり。これにしたがう、ゆえにざんぞくしょうじてちゅうしんほろぶ。うまれながらにしてじもくのよくあり、せいしょくをこのむあり。これにしたがう、ゆえにいんらんしょ  うじてれいぎぶんりほろぶ。

しかれば、すなわちひとのせいにしたがい、ひとのじょうにしたがわば、かならずそうだつにでて、ぶんをおかしりをみだすにがっして、ぼうにきす。ゆえにかならずまさにしほうのか、れぎのみちびきありて、しかるのちじじょうにでて、ぶんりにごうして、ちにきせんとす。これをもってこれをみるに、しかればすなわちひとのせいのあくなることはあきらけし、そのぜんなるものはいなり。

ゆえにこうぼくはかならずまさにいんかつじょうきょうをまち、しかるのちなおからんとし、どんきんはかならずまさにろうれいをまち、しかるのちりならんとす。いまひとのせいはあくなれば、かならずまさにしほうをまち、しかるのちただしく、れいぎをえ、しかるのちおさまらんとす。いまひとしほうなくんば、すなわちへんけんにしてただしからず。はいらんにしておさまらずとなし、ここをもってこれがためにれいぎをおこし、ほうどをせいし、もってひとのじょうせいをきょうしょくしてこれをただし、もってひとのじょうせいをじょうかしてこれをみちびきしなり。みなちにいでみちにがっせしめしなり。

いまのひと、しほうにかし、ぶんがくをつみ、れいぎによるものは、くんしたり。せいじょうをほしいままにし、しすいにやすんじて、れいぎにたがうものは。しょうじんたり。これをもってこれをにみる、しかればすなわちひとのせいのることはあきらけし、そのぜんなるものはいなり。)

【語注】

(1)性:本性、生まれつき。 (2)其の善なる者は(い)なり:〈僞〉と〈爲〉は昔には通じて用いられという。爲は人為や作為とあるように“偽り”ではなく「人の性質が善であるのは人為の結果である」。 (3)有好利焉:“焉”は“於此”であって「本性において利を好むところがある」を意味する。 (4)順是:この本性に従う。 (5)辞譲(じじょう)亡焉:人に譲る心がなくなる。ここの“焉”は「その場合に」の意味。 (5)疾悪(しつお):同義語は、にくむ・にくしみ。疾は嫉と同じ。 (6)残賊(ざんぞく)生ず:残も賊も「そこなう」の意。人をそこなう心が生ずる。 (7)忠信:まごころとまこと。 (8)有好声色焉:一説に有は余計な文字といい、また別説では有好声色は有耳目之欲への注釈が誤って本文に入ったものという。声色は歌舞音曲と美人のこと。 (9)文理:節文条理のこと。文も理も「あや」、ものごとをほどよく行う標準、すじみち。

(10)犯分乱理:犯分は犯文の誤りで、「犯乱文理」を互文としたもの。すじみちを犯し乱す。 (11)帰於暴:道をはずれた行いをするようになる。 (12)師法之化:先生と掟の教化。 (13)礼儀之道:礼と義とによる導き。道は導に同じ。

(14)拘木:拘は鉤の仮借、まがった木。 (15)檃栝(いんかつ):曲がった木をまっすぐにする木。 (16)烝矯(じょうきょう):烝は

蒸に同じ、湯気で木をやわらかにする。矯はまげてまっすぐにする。矯には「ためる」と「ただおす」の相反する意味があり、曲がったものを正しくし、正しいものを曲げる、いずれをも意味する。 (17)礱厲(ろうれい):といし。厲は礪に同じ。 (18)利:鋭利。 (19)偏險(へんけん):かたよって正しくない。 (20)悖亂(はいらん):みだれる。ボツランとも読む。 (21)矯飾(きょうしょく):変化を加えて立派にする。 (22)情性(じょうせい):「情」は「性」の発動したもの。 (23)擾化(きょうしょく):ならして変化させる。 (24)文學:学問。 (25)道禮義(れいぎによる):「道」は「由」に同じ。 (26)恣睢(しすい):わがまま。

【釈】 「人の性は悪なり       荀子」

 人間の本性は悪であって、善として現れるものはその人の努力の結果なのである。人の性は、生まれながら利を好むものである。その本性に順えば、人に譲る気持ちは失せて奪い合う争いとなる。生まれながらにして他者を憎む心をもつ。その性に順えば、人をそこない人間としての誠を見失ってしまう。生まれつきに、耳に快い楽の音、目に美しい光景を求めて、歌舞音曲と美人を渉猟したがるものである。そうであれば、淫乱の風が生じて礼儀も廃れ、世の放埓は如何ともしがたくなる。

 かくて、人は本性の悪に従い情に順うのみ。必然に争奪の境涯に陥って、人である筋道を犯し、暴が暴を呼ぶ凄惨な事態を招く。だからこそ、人の師たる者や世の制度は、人々を礼と義による導きによって教化し、他に謙譲であること及び社会秩序を尊ぶことで、平和な治世をもたらそうとするのである。これらのことをもって考えれば、人の性が悪なることは明らかであって、人の善たる有様は人たるの(当然ではない)作為の産物といえるのである。

 曲がった木は、矯正したり湯気をあてたりして直くするものであり、なまくらな刃物は必ず砥石で研いで鋭くする。人の性は悪なのであるから、必ず師法の教導を待って正しくなり、礼と義を身につけてのちに治まることになる。人に師法という教導がなければ、人の行動は偏って正しくならない。礼と義が無ければ乱れたまま治まらない。いにしえの聖王たちは、人の性の悪であることで、行動に偏りがあっては正しくならない、乱れたままでは治まらないと判断し、これらが為に礼と義を起こし、法度(ほうど)を制定して、人の性より発した情性に変化を加えて立派にし、そうして情性をならし変化させ導いた。すべてが治まり正道に合致したのである

 いまの人は師法の教導によって教化され、学問を積んで礼と義に依拠する者は君子となり。礼と義に違う者は小人とみなされる。こうやって、ここまでのことを概観すれば、はっきりとわかる。人の性の悪なることは間違いがないからこそ、その善なる現れは人為に築き上げられた成果なのである、と。

【鑑賞の手引き】

 この文章の冒頭を、そのまま漢字かな交り文で表すと、「人の性は悪、其の善なるは偽なり。」であって、読みは「ひとのせいはあく、そのぜんなるはいつわりなり」とするの当然なのである。———しかし〈語注〉にあるように、「いつわり」ではなく「い」と読めと書かれてある。

 そこで、『荀子』正名篇第二十二を見る。

———— 人間の属性に関する名称について述べる。人間が生得的に持っているものは、これを「性」と名付けよ。その人間が生得的に持っているものから何らの人為も加えずに自然発生する、陰陽の調和による身体の形成・外物と絶妙に対応する五官の形成・身体が外物の

さらに。漢和刺激に反応する感覚の形成、これらもまた「性」と名付けよ。

 この人間の「性」から好き・嫌い・うれしい・腹が立つ・哀しい・楽しいといった衝動が沸き起こる。これを、「情」と名付けよ。この「情」が沸き起こった後で、心がこれを取捨選択する。この理性の作用を、「慮」と名付けよ。心が「慮」して、その結果人間の能力が発動して何ごとかを行う。これを、「偽(い)」と名付けよ。「慮」を積み重ね、人間の能力を用いて習得を行い、その結果成し遂げるもの。これもまた、「偽」と名付けよ。

 とある。

漢和辞典では

【偽】または【僞】

当用音訓 ギ いつわる にせ

意味 ①いつわる。うわべを繕う。②いつわり うわべだけのみせかけ うそ。③人間の作為。うわべのつくろい。④なまったことば。ことばのなまり。

解字 爲の原字は「手+象の形」の会意文字で、人間が象をあしらって手なずけるさまを示す。僞は「人+爲」の会意形声文字で、人間の作為により姿をかえる。正体を隠してうわべをつくろうなどの意。爲が広く、作為する→するの意となったため、むしろ僞にその原義が保存され、特に③の用法が為のもとの意味に近い。

 とある。(藤堂明保編「学研 漢和大辞典」学習研究社)

 つまり、悪と善とは鏡に映る実像と虚像というに認識であってもいいのではないか、と思われるのである。

 

TOSHIHIRO IDE について

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