薄明かりの町(1)

幼き日/辻の堂近辺

辻の堂の八百屋さんは菅(すが)さんといった。西となりの魚屋さんも菅さんだったが、別に親戚でもないと、これは母が言ったのか、それとも魚屋のお兄さんが言ったのか。魚屋の隣は大坪薬屋であった。その先の辻の堂交差点の西南角には島薬局があった。薬局と薬屋の違いは薬剤師のいるいないのことだと母から聞いた。

島薬局は交差点に面して丸いカーヴをつけたアール・デコふうの建物で、丸い硝子の部分はショウウインドウになっていた。北側と東側に引き戸の出入口があり、内部のカウンターも建物のカーヴに沿ってアールがされていた。島薬局には祖母の使いで目薬を買いによく行った。目薬の名は京都目薬といい、二枚貝の合わさった貝殻の中に入っていた。白いゼリー状の薬を大学目薬とかの空容器に入れて湯で溶かし、冷めた白濁液をふつうに点した。たまには硼酸も買ってきた。硼酸水で目を洗い併せて京都目薬を使えば、目脂でしょぼしょぼすることなくスッキリした。

島薬局のとなりは呉服屋というより布地屋さんだったろうか。5年生になって家庭科が始まり、この店に母と裁縫箱セットと運針練習用の晒し布を買いに行った思い出がある。その隣は寿司屋さんだった。お店で食べたことはないが、お客さんが来て出前をとったことはあったと思う。ほかに毛糸屋さんとかもあったろうか、さらに西はお店が途切れて黒い板塀となっていた。

私はいま、手元になんの資料もないままに書いている。記憶はさほど鮮明ではない。薄明かりの中にある。時間はオーバーラップして、並立するはずのないものが重複していることもあるだろう。それを楽しいと思えるようになってきた。

板塀が途切れると細い溝があり、そこから庇が歩道にかぶさったアーケードめいた間口の狭い4つか5つかの店がある。一階が店舗で二階が住居になった長屋建てといおうか。この建物(庇はもうないが)今もあるから、小学生のころはなかったかもしれない。婦人服店や魚屋さんがあり端がくらもちの化粧品店だった。長屋の先が佐賀銀行与賀町支店。白い二階建でその前に公衆電話ボックスがあった。左に曲がれば佐大通りだが、さらに貫通道路を西に歩く。

荒尾花屋さんは今もあるが、場所は一度佐銀が移った後の向こう側に移り、道路拡幅でまた戻ってきた案配である。それからいくつか、肉屋さんもあったが、なんといっても模型屋さん。ウィンドウの中の飛行機や軍艦は見ているだけでワクワクした。ゴム紐を動力にして飛ぶ、木と竹と紙で作る模型飛行機を何回か買った。また溝があって旭高校があった。

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