百名山の体臭

*旧稿再録*

 本稿は02年に書いた山の本の書評。「百名山現象」に主体性を忘れて狂奔した日本の山はようやく終焉を迎えつつあるのではないか。今となっては考古学的代物であるが、自分の生死を他人の頤使に委ねないためにも再録することとした。なお、「百名山の行き着いたもの」(2009/07/23)及び「危険な遊び」(2009/07/26)も併せてご覧いただければ幸いである。

――安宅夏夫『「日本百名山」の背景』を読む

三宝山

 信濃の国は海をもたず十国に囲繞(いにょう)されている。越後、越中、飛騨、美濃、三河、遠江、駿河、甲斐、武蔵及び上野の十国である。もっとも短い国境は武蔵と接する武信国境。北の三国山1828mから南の甲武信岳2475mまで、わずかの距離の間には石楠花の十文字峠2020mや三宝山2483mが起伏する。

 この三宝山は不遇な山である。埼玉県随一の標高を誇りながら、百名山にリストアップされていないのである。隣にのっそり居座っている甲武信岳は、頂上に大きな標柱(「日本百名山甲武信岳」と書かれてある)を建てて、四季千客万来の繁昌であるというのに、三宝山を顧みる人は甚だ少ない。なぜか?

 ある人は「奥秩父主脈縦走路からはずれているから」といい、また「頂上で立ちションする醍醐味がないから」という説をなす者もいる。後者については注釈が必要かも知れない。つまり、不謹慎にも頂上で立ちションしつつグルリと一周すると、千曲の源頭に至って流れは信濃川となり末は日本海に注ぎ、また、大滝村に下って荒川の源となって東京湾に至り、さらに、西沢渓谷の水は笛吹川を経て富士川の名を負って太平洋を潤すというのである。科学的には噴飯ものの話ではあるが、この程度で喜ぶmountaineer(ヤマヤと称する)も多い。

 だが、そんなことではないのである。三宝山は百名山、深田百名山に入っていないが故に不遇なのである。現在的には、日本の山はこの「深田百名山」によって区分差別されているのが実態である。むろん深田久弥の責任ではない。『深田クラブ』などを筆頭とする有象無象(うぞうむぞう)の営利業者の仕掛けのせいである。

 雲取山2017mはなにゆえに百名山か? 首都東京都の最高峰だからである。雲取山がもっとも賑わうのは、登山適期の春秋ではなく、厳冬の元日なのである。元旦の山頂でご来光を仰いで「バンザイ!」するのである。山を楽しむのではなく、ヒトが高いところに登りたがる習性と、東京の人口が多いからである。

 三宝山は武蔵の国一の山である。東京が首都であってもいいが、それなら武蔵こそ都のある国ではないか。明治天皇が東京に行幸して一等最初にやったことは、大宮の氷川神社に御幸(みゆき)して「勅祭武蔵一の宮」の称号を与えたことであったというのに。

 府県制は行政の便宜のために、つい最近(1871)つくられたもので、歴史も伝統もあるというものではなかろう。しかも、三多摩が住民の反対はものかは、神奈川県から東京府に編入されたのは1893年である。このことなかりせば、元日の大島三原山は大混雑であったことだろうに…(なんたって東京一だ)。

 三宝山は一等三角点本点のある堂々たる山なのである。もっとも私は、訪れる人の少ないのを嘆いてはいない。山はお客さんの数によってランクづけられるものではない。人気とはかりそめのものと思うばかりである。

久恋(きゅうれん)の山

 前置きが思わず長くなってしまった。表題の『「日本百名山」の背景』は読み応えのある著作である。私はここで文芸評論を書こうとは思わないので、ぜひとも手にとって読んでもらいたい。(集英社新書 /2002.04/¥700+TAX)

 内容は深田久弥の評伝であるが、たんに久弥の足跡を丹念にたどるだけでなく、筆者の該博な文学知識によって、本書は堅牢な文芸評論として洛陽の紙価を高めるものと思われる。私も本書によって初めて、久弥の(人物であり、作品であることの)全体像を概観することができた。

 そこで「久恋の山」である。『日本百名山』では、信越国境の雨飾山がそれである。深田久弥はこの山に、一度目は道に迷い、二度目は天候に阻まれ、三度目の正直で頂を踏むことができた。だから「久恋の山」であると(信じられてきた)。

 私は読んだ当初から引っかかっていた。唐突であったし、どこにも三度目のリベンジだから久恋だとは書かれてない。「なにか別の理由があるだろう」とは思っていたが、まさかこんなことだったとは! である。

 深田久弥は1903年、加賀大聖寺の商家に生まれ、福井中学を経て22年一高入学。翌春、学校のそばの本郷通りで美少女とすれ違い、一目惚れしてしまう。少女は木庭しげ子といったが、久弥が知る由もない。そして関東大震災、少女の姿も見えなくなる。

 東京帝大文学部に進学、在学中のまま改造社に入社して編集部員となる。懸賞小説の下読みにあたって、北畠八穂の作品に出会って感動し、津軽に赴いて八穂と会う(1928)。八穂はあの本郷通りの美少女の生き写しであった。

 久弥は運命的なものを感じて、脊椎カリエスの重病を抱える八穂と駆け落ちして、我孫子の町で同居する(1929、入籍は1940)。すでに小説の筆を執っていた久弥だったが、同居後の作品は「叙事的小説」「叙情的小説」「山の紀行」の各方面で精力的な発表活動を始める。とくに叙情作品は世の中で絶賛されて天才ともてはやされるが、実は八穂が下書きしたものを久弥が添削浄書していたのだった。作品は売れ、鎌倉に新居も設けて順風満帆の生活が始まった、

 長谷部日出雄『辻音楽師の唄』によると、1935年3月太宰治が縊死に失敗してふらふらとさまよい深田の家の戸を叩いた。太宰はまったく初対面ながら、文名高い深田が新進の自分を拒否するはずはないと思いこんでいた。このルーズな自殺未遂常習者は八穂の手料理を所望し一泊して去った。だが八穂は実践女専を卒えての青森での短い教員時代に、太宰を見かけた記憶があった。弘前高校生で津島家の坊ちゃん、青森の芸妓紅子(小山初代)と逢瀬を重ねていた高名な遊蕩児をである。

 太宰と深田たちの接点はこの一瞬のみである。八穂が青森で太宰を見かけたのは1927年、30年に最初の自殺未遂事件(女性は死亡)。31年帝大生の太宰は初代と所帯をもつ。深田宅を訪れた翌月、盲腸炎をきっかけに麻薬中毒に陥る。37年谷川温泉で初代と心中に失敗して別れる。その後石原美知子と再婚するのは1939年である。

 そして深田たちの運命の時が来る。1941年5月、東大の後輩中村光夫(木庭一郎)の結婚式で、あろうことか久弥はしげ子と再会する。しげ子は中村の姉であった。その瞬間、しげ子は「やはり、あなただったのですね」と久弥に語りかけた(と書かれてある)。

 時を同じくして八穂のカリエスは重篤の段階に入っていた。命旦夕に迫ろうとしていたのである。6月、久弥はしげ子と雨飾山登山を企て、雨の小谷温泉に4日間逗留して初めて結ばれた。

 なんと言えばいいのか! 薄っぺらい道徳律で語ってもなんの意味もない。彼も彼、彼女も彼女、運命のあざなえる糸の導くままに、男と女は淪落(りんらく)の快楽(けらく)に身を委ねていったのだろうか。

 雨飾山は久恋の山であったのだ。「久恋の女性と結ばれて眺めた山」である。18年間の久しき恋の成就であり、久弥の恋の不可避の到達点であり、久しき恋の煉獄の出発点でもあった。

 『日本百名山』の雨飾山の章に「久恋の山」と記した深田久弥に、私は粘液質の赤い情念と人間のどうしようもない業(ごう)を感じる。『日本百名山』は山の紀行文ではなく、まごうことなき文学である。人間の葛藤と痛苦、解放とカタルシスを暗喩として描いた文学であったのだ。

 生活の場と百名山

  さらに年譜をたどろう。

 1942年、しげ子との間に長男が生まれ、久弥は八穂のもとを離れる。1944年3月、陸軍少尉で応召して中支戦線へ。

 1946年7月復員するが、鎌倉の八穂に一片の挨拶をしただけで、しげ子母子が疎開している越後湯沢に。

 1947年2月八穂と離婚、しげ子との婚姻届、9月郷里大聖寺に転居。1948年、次男誕生。1951年、金沢に転居。この間、八穂は奇跡的な回復を遂げ、児童文学者として世に現れる。また、久弥の「盗作」問題も起こる。

 一方、太宰は美知子との間に一男二女、太田静子との間に一女をもうけ、1948年6月13日夜山崎富栄と玉川上水に入水して世を去っている。

 1955年、久弥は東京に転居。1964年7月、『日本百名山』刊行。1971年3月21日、茅ヶ岳登山中に脳卒中で昏倒し意識不明のまま死去、68歳。同年八穂、野間児童文芸賞及びサンケイ児童出版文化賞大賞を受賞。1974年八穂、日本児童文芸家協会より児童文化功労者として表彰される。

 1978年3月25日、しげ子交通事故にて急逝、68歳。1982年3月18日八穂、閉塞性黄疸症にて死去、78歳。

 人生のあやなす様は凄絶である。

 さて、「百名山」と久弥の生活の場について考えてみたい。

 久弥にとって、もっとも慣れ親しんだ山は白山2702mであろう。ふるさと大聖寺の正面にそびえる白山は、戦後10年間の逼塞雌伏の期間にあっても、朝な夕なつねに視界の中にあったであろう。白山が久弥になにをもたらしたか? 人格の深部に影響したことだけは確かである。

 よくいわれる福井の荒島岳1523mはどうだろう? 荒島岳は百名山に値しないのだが、「深田さんのふるさと贔屓でしょうがないんだ」と。だが、そもそも百名山はいうまでもなく「深田百名山」なのであって、さもマジメに「日本百名山」だと思うから自家撞着を来すのである。多感な紅顔の福井中学時代である。荒島岳がなにほどかの感動を与えたであろうことは想像に難くない。

 高校時代以降の人生の主舞台である関東の山が多いのはやむを得ない。筑波山876mごときがリストにあるのは、我孫子の陋居(ろうきょ)から鬱屈した感情で眺めた記憶が強固だったからだろうか?

 北アルプスの山々が多いのはどうだろうか? ざっと見ただけでも16座ある。個別の山については異見があるようだが、それは久弥の生活感覚によるチョイスと見るべきで、云々してもはじまらない。

 越後湯沢のあたりも多い。谷川岳1963m、苗場山2145m、巻機山1967mあたりは湯沢の周辺といった感じである。魚沼地方には越後駒ヶ岳2003m、そこから銀山平を経て平ヶ岳2141m、近場には会津駒ヶ岳21333mがあり、ここまで来れば燧ヶ岳2356m、尾瀬ヶ原の向こうには至仏山2228mがあって谷川と握手できる。武尊山2158mも同じ山域といっていい。これで9座である。ちょっとヒイキしているような案配がする。

 終戦直後の荒廃と精神的な揺動の時期、湯沢の旅館暮らしの日々、山へのあこがれは胸をかきむしったのではないか? そんなころの山行はしみじみと胸に染みわたったであろう。記憶のひだに残した印象も深かったに違いない。

 繰り返すが『百名山』は文学であって、ガイドブックでもなければ、厳密な史料批判と実地踏査に基づいて書かれた実証論文でもない。

 文学作品は著者から独立して存在する。著者がどのような「生活」をしていようと関係ない。読者は作品だけを評価すれば足る。しかし、著者の人となりを知れば、作品をさらに味読できるというものだ。『百名山』に感じる久弥の体臭、いかがなものだろう?

 百名山に目を引きつっているうちは、いわばブランドフリークである。若いお姉ちゃんのブランド追っかけを笑えたものではない。同じき日本人の悲しさなのである。

 ただ、津軽の「百名山」が岩木山と八甲田山だけであるのが適当なのか、私には分からない。

(了)

TOSHIHIRO IDE について

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