爛漫之春-清明時節雨紛紛

先の週末を終の花見として、月曜(4/7)から火曜日(4/8)にかけて、さんざの雨降って風吹き、きのうは陽気よろしと思えば今日また雨となる。この季節よく雨が降る。菜の花くたしの走りの雨。

二十四節気では春分から15日目を清明という。清明は清浄明潔からの語で、江戸天明期に著された『暦便覧』(太玄斎著)によれば、「万物発して清浄明潔なれば此芽は何の草としれる也」とある。それから半月の穀雨までも間を三候に分かつ七十二候では、清明の初候を玄鳥至(つばめきたる=燕が南からやってくる)、次候を鴻雁北(こうがんかえる=雁が北へ渡っていく)、末候は虹始見(にじはじめてあらわる=雨上がりに虹が現われるようになる)となる。こうして、「春雨降りて百穀を生化すれば也」の穀雨にバトンタッチする。立夏はもう次である。

(植物園の桜)IMG_0041

清明          杜牧

【原文と読み下し】

清明時節雨紛紛 路上行人欲断魂

借問酒家何処在 牧童遥指杏花村

せいめいのじせつあめふんぷん ろじょうのこうじんたましいをたたんとほっす

しゃくもんすしゅかいづこにかある ぼくどうはるかにさすきょうかのそん

 

紛は「小さなものが分散する」の意。糸は小さいものを代表し、音符の分は分散する意で会意兼形声文字。分は分散、粉は分散する小さな粉、芬は香りの分散。紛紛の原義は「多くの小さいものが分散する」。転じて、入り乱れるさま、乱れ散るさま、大量にあってわずらわしいさまとなる。この場合は原義がいい。もやっとたちこめる春の雨(濛雨)とする。

断魂を「たましいのたちきれるほどのいたましさ、悲しみにたえぬさま」ととれば、詩興はそれこそ”魂消”てしまう。魂は鬼と音符云(=雲)の会意兼形声文字。雲はもやもやしたさまで、「もやもやこもる」の意も。渾(=もやもやまとまる)と類縁。渾は水と音符軍の会意兼形声で、全体がまるくまとまり溶け合っているさま。もやもやとした春の情が心をうながすのであろう。ちなみに渾酒とは濁り酒のことである。

(ミズキの木)IMG_0022

【釈】

春たけなわの清明のころ、江南の野は小糠雨にもやって季節をいそぐ。道行く旅人は傘のしずくの先に見る春の情趣にひたって、胸のもやもやを抑えがたくなった。田の中には代掻きの牛を追う少年がいる。「おーい、すこし訊ねるがここらに酒屋はないのかね?」 首を傾げていた牛飼いの牧童が、意味がわかって大きくうなずき、右手を上げてはるか彼方を指し示した。その先には、一望の満々たる水を張った田が展がり、そして、煙景の中に白い杏の花に包まれた村がこもっている。

舞台は長江の南。江南の湿潤の風が東シナ海を越えて、今年も日本にやってくる。初夏の匂いのする風が。

 


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