阿川弘之の軽躁

 

 阿川弘之の『大人の見識』(新潮新書)を手にとった。正直、「うむ、老いたるかな」と思う。この本は口述筆記というか、新潮社の担当者が作家と相談の上でプロットをたてて編んだものであろう。これまでのエッセイとかのモザイクといった案配である。それではタイトルが随分ではないか。88歳になんなんとして、なお矍鑠(かくしゃく)たるは慶すべきことながら、青年の客気を描いてきた作家の晩年に”大人の見識”では具合が悪かろう。本人が”序にかえて”で「老人の不見識」と言っていること、必ずしも謙遜ばかりではない。

 あいもかわらぬ海軍贔屓(かいぐんびいき)には辟易(へきえき)する。なぜこれほど常識外れの過褒に徹するのだろう? 一言でいえば論理性の欠如である。ものごとを好き嫌いで判断しているだけといっていい。まるで子どもである。二二六事件で陸軍が嫌いとなった、東条英機も嫌いだ。「坊主憎けりゃ袈裟まで」だから、東大の卒業式に来て自画自賛した東条を軽蔑する。この口調はバカな東大生がよく言う「入試受かってから来い」と同じラインにある。

 この延長線上に海軍偏向がある。いわく”フレキシビリティ”、いわく”文化遺産”。それが荒唐無稽なことは開戦と敗戦の事実で十分である。(2007/06/29blog「帝国海軍の田紳」参照)。付け加えるならイージス艦「あたご」とか潜水艦「なだしお」とか、腐敗の伝統ならいくらでも列挙できる。—なお、彼の子息である阿川尚之が著した『海の友情-米国海軍と海上自衛隊』には、Japanese Navy が守る第一義がJapanese nations ではなくU.S Navyであることが見事活写されている。

 好き嫌いには理屈はいらない。感情である。その感情のよってきたる所以は、つまるところ生育環境である。小学校が偕行社附属、中学校が広島高等師範附属ときては、どういう青年ができるかほぼ推察できる。ちなみに偕行社は陸軍将校団の倶楽部組織、広島は軍都なれば幼年学校の予備校的存在だったのだろう。高等師範は東京と広島の2校だけだったから、この附属中学も”名門”である。私も附属に行ったからいうと、教師がともかく(意味のない)選別意識を強調する低俗な学校である。他の学校を「田舎の学校」と冷笑するようになる。鼻持ちならぬエリート意識である。これは官立広島高校を経て東大に進み、 また海軍予備学生になったとなれば昂進するのみであろう。任務は過酷な戦闘もない暗号解読士官、その立場はひたすら陸軍を罵倒して海軍のお先棒かつぎをやるしかなかった。

 彼の場合も著作は『志賀直哉』とかの一部を除き戦争体験をベースとしている。他の作家と趣を異にするのは与えられた場の違いであろう。予備学生でも島尾敏雄は特攻艇震洋の隊長で終戦を迎え、戦後も苛烈な文学を著した。吉田満は戦艦大和の稀有の生き残りとして戦後を足早に生きた。大岡昇平は妻子ある召集の老兵としてフィリピンの山野を彷徨した。司馬遼太郎は戦車小隊長として本土決戦に対峙し、国民を棄てる国家のおぞましさに戦慄した。松本清張は一家6人の扶養をもぎとられ下積みの兵士として朝鮮で絶望に悶々としていた。ひとり阿川弘之は旧き良き海軍を称揚して懐かしむ。

 それもまたよしである。陸奥宗光や小村寿太郎がいたればこそ、近代日本外交が”一等国”たりえたともいえよう。外務省だって150年の文化がある。1941年12月7日のワシントンで二日酔いで開戦通告が遅れたのも文化なら、その当事者が戦後次官になったのも文化である。山本五十六の二番機に搭乗して遭難し、ゲリラに秘密書類を奪われた連合艦隊参謀長福留繁は、”そういう不祥事はなかったことにする”海軍の方針で処分もなく栄進した。これも海軍の文化である。その結果「あ号作戦」で散った若者たちの数はいくばくかわからない。

 彼の海軍モノは若手士官文化である。生活臭のない青年の客気である。青年たちの周辺においては”スマートな海軍”があってもいいだろう。「自虐史観」が正しいとは思わない。だがこれは「稚気愛すべし」の文化なのである。鉄ちゃんの文化といっていい。私も鉄ちゃんではあるが、鉄道趣味は”見識”とはいえまい。サブカルチャーにすぎない、それでいいのである。

 『大人の見識』という書籍を編み、タイトルを提案したのは新潮社の担当者であろうが、それを肯ったのは作者の責任である。この本、帯に”軽躁なる日本人へ”とある。軽躁とはいかなる意味なのだろう? 『老人の不見識』のほうが”ヒウマー”もあってよかっただろうに・・・。

 

TOSHIHIRO IDE について

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