沖縄との最初のえにし

 5月1日付Face Bookに寄せた写真に、以下のコメントを載せた。

「木曜日(4/29)のWalkは彩の森入間公園までの往復。距離稼ぎにZig Zag歩き、帰りにKFCでとりの日パックを買って帰る。14時~17時30分、iPhone計測12.3km,23千歩余、さすがに疲れた。思えばSFO講和条約発効70年、沖縄を人身御供にした「独立」。学生の頃は機動隊と石投げ合戦やってたのである。往時茫々、老残の身」と。

遥かなる異国の島 

 かつて沖縄は遥かに遠かった。初めての海外旅行は1974年。ミーハー新婚旅行のハワイであったが、パスポートのほかにUSAのmultiple visaを必要とし、持出し外年貨500ドル(クレジットカード分)許可事項も旅券に記載しなければならなかった。ちなみに当時のレートは$1.00=308円であった。

 その少し昔の1969年。「日帝打倒・安保粉砕」のヤケッパチなスローガンを掲げて、佐藤訪米阻止の秋季決戦とやらがあった。私も最後のご奉公と参加したが、結果は惨めな完敗。「万歳沖縄が返ってくる! 次は北方領土だ。」の浮かれポンチで、師走総選挙は自民党300議席の大勝利となった。個人としては世の中の騒動ならばこそ、揺れる青春を輝かしいロマンに転換するBIG STARを手にしていた。初冬の南山城、浄瑠璃寺のロマンだった。

  1970年EXPO ’7 0、大阪万国博覧会である。開会式の翌日から6月いっぱいまで、大手旅行会社の添乗員として、休む暇なく飛び回った。パビリオンの展示は食傷したし、大盛況の太陽の塔のVIP入口を見つけて、懇意のお客さんやGFたちを案内して喜ばせた。アゴとアシは支給されるので、懐は潤っている。「夏休みはロマンの星ともに南の島で楽しもう」と奄美諸島を巡った。与論島の先の海に北緯27度線が引かれてある。ラインは見えないけれど、沖縄本島は見えるはずだ。ボートを出してちょいと飛びこみ、スイスイスーダラ行けば容易に上陸できそうである。しかし、そこは外国だった。

 本土復帰の1972年5月15日まで、外国人が琉球列島に入るにはアメリカ軍政府高等弁務官の許可が要った。

 外国人とは誰を指すか?—— ①本籍が沖縄県にあっても住所が日本本土にあ る者であり、②琉球列島に本籍・住所を持つ琉球住民及び米軍人・軍属並びにその家族以外のすべての者、である。外国人の入域手続きは、(1)自国政府からの旅券(日本本土籍者の場合は旅券の代りに内閣総理大臣の発行する「身分証明書」)の発給を受ける。(2)米国在外公館(日本本土の場合には琉球列島米国民政府の出先機関である東京渡航班)を通じて琉球列島高等弁務官に琉球への入域許可申請を行って入域許可を受ける。「入域許可書」はビザに相当する。(3)入出域に際しては出入域港で入域及び出域審査を受けて許可を必要とする。

——そんなことまでして沖縄に行こうとは思わないから、青い海の向こうの空を見上げて島に戻った。民宿のラジオは「郵便局に強盗が入って現金〇〇ドルを奪われた」とか語っている。「そうか、沖縄は日本じゃないんだよな」とつくづく思った。

琉球人との初会 

 1945年4月の米軍上陸から6月の日本軍組織的戦闘行為終了、そして「ニミッツ布告」といわれる米国海軍軍政府布告第一号によって、南西諸島及びその近海の住民に対するすべての権限と行政責任は占領軍指揮官に委ねられた。

 さらに日本がポツダム宣言を受諾した後は、対ソ連戦略のために沖縄の単独占領を主張し、1946年1月のGHQ覚書によって北緯30度以南の南西諸島を日本から分離させ、1947年9月には昭和天皇の「米国による琉球諸島の軍事占領継続を希望する」とのメッセージが発され、それは1952年サンフランシスコ講和条約で確定された。

 沖縄県や沖縄県人というコトバは「琉球」や「琉球人」に置換された。琉球も沖縄もそれほど由緒がある美称ではない。尚氏琉球王朝は1429年から1879年450年続いた。明皇帝の冊封を受けるに際し賜与された国名が琉球である。明治線政府が武力を背景に琉球王国を沖縄県とした「琉球処分」は、来るべき帝国ニッポンの薄汚い小手調べであった。

 沖縄の人とゆっくりと話した最初は1966年の春、東京始発鹿児島行き急行「霧島」の中だった。私は高校生、4月からは3年生となる。 

 私の高校は女子生徒に限って修学旅行を実施し、男子生徒のそれはなかった。進学校だから「遊ぶ暇があれば勉強しろ」というのではない。男性は進学や就職で東京や関西に行くことはいくらでもあるが、女性は九州から都に行くチャンスなど滅多にないだろう。「一度くらいは見せてやろうではないか」の親心だとか云う。女性抑圧、男性優越の思い上がりであんる。しかし当時としては枚挙に遑がない。戦後憲法もデモクラシーも、きちんと理解している教員なんぞレアケースなのであった。

 中学3年生の折に、出版社主催の「ヨーロッパ派遣中学生記者」の最終選考に残って東京には行ったが、駆け足見物しかしていない。大学受験を翌年に控えて、志望校巡りの一人修学旅行をすることを決意した。冬休みのアルバイトに、県下中学3年生対象の「高校入試対策実力テスト」の採点者となった。郡部のいくつかの学校の答案用紙を受け取って採点し、本気を出して一言アドバイスを書き添えたりもした。

 旅費のベースはできたので残りは親にせびり、学校で学割証明を貰い、JTBで東京往復乗車券と往路の指定券を求めて、入試で学校が休みになって出立した。京都までは旧2等車のリクライニング座席指定車、小倉から門司工高卒で大阪の就職先に行く兄ちゃんと一緒に酒酌み交わした。京都に朝ついて飯を食べ、市内一日巡りの観光バスに乗り、修学旅行を楽しんで、午後遅く京都大学や吉田山を歩き、祇園や河原町をふらついて駅に戻り、急行銀河に飛び乗った。

 東京の宿は友人の西川君宅。彼の父が東京に転勤してから後も、義務教育でない高校の転校は簡単ではない。一人残って、2年次から東京に転校していった。彼とは“鉄ちゃん”仲間でもあり、二人で伊万里から平戸へ旅したこともあった。1964年の夏休み、東海道新幹線の通し試運転が行われてNHKが生中継した。この時は東京—新大阪を4時間ジャストで駆け抜けた。その“快挙”を見終わって興奮が冷めぬ前に、西川君がわが家に駆け込んで来て、両人で大騒ぎをした思い出がある。なにしろ、本邦最速のビジネス特急「こだま」が東阪間をシャカリキに疾走して6時間半かかっていたのである。若造の夢は膨らむ「技術のニッポンの未来」てなものである。

 一週間ばかり東京をウロウロした。本郷や駒場の東大や高田馬場の早稲田、渋谷・六本木・有名女子高、私服でパチンコしたり酒飲んだり。帰る段になって、彼が「俺も佐賀が懐かしくなった。世話になった人にも会いたくなった」と、同行することになった。

 年度末、春の旅行シーズン、今さら指定席が取れるものでもない。そこで始発の急行列車自由席を、駅に早く行って列の前に並んで確保することにしたのである。

夜汽車の中で

 思えば56年も昔のことなのである。Diaryはもちそこそこ遺してはきたが、わが生涯を記録度からしようと思っての所為ではない。短い期間の備忘録であって、どこに散逸したか知る由もない。

 急行霧島に乗車した日付は3月の20日前後、発車時刻は10時過ぎ。そんなところであったろう。八重洲側のコンコースに列車名の看板が掲げられ、それぞれに車両ごとに列をつくって待つ。入線時刻が近づけばホームに行って整列乗車するのである。この日の霧島は戦後の混乱期を彷彿とさせる混雑だった。ボックス席満員は当然だが、通路もデッキもぎっしり。普通急行料金は200㎞まで200円で、それ以上は無制限の300円だったから、途中駅でも乗り降りの激しいことに驚いたものだった。 

 今でも覚えている。夕暮れの名古屋駅に着こうとすると、高架の新幹線ホームに下りの「ひかり」が入ろうとしている。東京からこっちが7時間、あっちは2時間。すごい懸隔を肌に感じた。トイレに行くにも通路は通れない、よそでも窓から出入りしている。私も窓から出てホームを駆け、用を済ませて次の岐阜駅までデッキに立ち、ホームを走って窓から戻ってきた。

 霧島には東京の高校修学旅行団も乗っていた。団体客は優先乗車されるので、それも大混雑の原因となったと思われる。その高校生の中に、つい先日三軒茶屋の家を訪ねて歓談した、西川君と同類の転勤族父を持つ山田君を見つけた。「なんだ、君らの高校だったか」と、神戸を過ぎていくらか空いた食堂車で、夜の山陽沿線を肴に、帰省する大学生を気取って3人でビールを飲んだ。

 さて、始発の東京駅である。8時前に着いて列に並んでいたので、ボックス4人席の窓2つの座を確保し、3番目は中年の男性、4番目に「ここ空いてますか」と声かけられたのが琉球の人との初会、喜納和子(きな・かずこ)さんだったのである。

 喜納さんは沖縄の宮古島出身。その春、大学を卒業して故郷に帰り、中学校の教職に就かれるとのこと。私の隣に座られたので、時間つぶしのおしゃべりを散々にしたが、17歳の男の子にとっては22歳の芳紀から香るFeminine fragranceが圧倒的で、ほとんど覚えていない。ただ、そのころはジェット機でひとっ飛びじゃなく、まだ汽車と船。その距離と時間の遥かなることに驚嘆したものである。

 学生となって沖縄からの“留学生”とも多く知り合った。ほとんどの者が在学期間の4年とか6年間を帰省せずに暮らしていた。そこには先に記したように、外国人となって戻ることの億劫さもあっただろうし、旅程の暇と経費が躊躇させたとも考えられる。本土にいた私たちが、東京から急行に飛び乗ったら24時間以内には帰省できたこととを想えば、やはり「区別」ではなく「差別」だったのである。

(*)1966年当時の東京~宮古島交通機関と旅程(天候や切符手配が順調であった場合)

第1日 昼前10時頃東京駅発      (列車泊)

第2日 夕方西鹿児島駅着                (市内旅館泊)

第3日 朝方鹿児島港で那覇までの切符入手

   夕刻鹿児島港出航      (船中泊)

第4日 終日航海       ( 同 )

第5日 午前那覇港入港 入域審査・上陸     (市内旅館泊)

第6日 朝方平良港までの切符入手

    夕刻那覇港出航                      (船中泊)

第7日 午前平良港入港

(補) 第2宮古島台風

 1966年の8月31日から9月7日にかけて猛烈な台風18号(国際名:Coraコラ)が、宮古島に停滞して猛威を振るった。

(最低気圧918hPa 最大風速85m/s 最大風速150kt 負傷者41名)

宮古島で観測した最大瞬間風速85.3m/sは現在も日本の観測史上第1位の記録。

被害の状況

 宮古島付近を時速10km前後のゆっくりとした速度で進み、9月4日早朝から6日早朝までの約30時間もの長時間にわたって大雨と強風に襲われた。9月5日、沖縄宮古島平良市では、最低海面気圧928.9hPa、最大風速60.8m/s(日本の観測史上7位)、最大瞬間風速85.3m/s(日本の観測史上1位)を記録した。半数以上の住家が損壊し、さとうきびの7割が収穫不能、野菜・果樹は全滅など、甚大な被害が出た。負傷者41人、住家損壊7,765棟、浸水30棟という被害が確認されている。

 このニュースは私には衝撃的だった。日本の新聞は「沖縄・宮古島全島壊滅」といった煽情的な見出しで掲げて報道したが、地元の情報は乏しく、テレビの画像は見ることができない。夜汽車の中でたった一夜おしゃべりしただけの、水のようにうすい縁(えにし)ではあるが、全島壊滅とか聞いてなにもしなかったら、一生句の悔いとなる。名前と就職先名しか聞かなかったが、見舞状は出すべきだと思った。

 宛先を「沖縄県宮古島平良市平良中学校 喜納和子先生」とし、秋の九州の絵葉書に見舞状を認めてAir Mailで投函した。返信は来なかったが、私はそれでよかったのである。

TOSHIHIRO IDE について

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