花山院家の人々(1)

更衣

 更衣と書く衣替えは、中国に倣って4月1日夏の衣に、10月1日に冬の衣に更える宮中行事であった。桓武帝のころからと伝わるが、天皇に近侍して装束更えに奉仕する女官も更衣(かうい)と呼び、やがて帝の妻妾(后=中宮、側室=女御、妾=更衣)の下位に置かれた職分となったので、御所の外では憚(はばか)って衣替えと称するようになる。

 江戸幕府においては4月朔から5月4日までを袷(あわせ)とし、端午節より8月晦日に至る帷子(かたびら=単)、9月朔より8日が袷で、重陽節より3月晦日を綿入れとした。泰平につれ下々これに倣うようになり、花街の衣替えは世に艶やかさの評判を高めた。庶民もまた季節に衣をコーディネイトすることで、美しさへの生活感覚を鋭くしていき、日本人の繊細な文化を育んでいったのである。

 御一新以降、官員・軍人・邏卒らが洋装となって、これらの制服の衣替えが新暦6月1日と10月1日となる。諸学校の学生生徒も制服を着るようになり、女学生の服装も和洋折衷からセーラー服に遷り変わると、夏冬の交替が截然(せつぜん)と目に映って行われ、当然の習慣になっていった。

 俳句では更衣は夏の季語である。(ころもがへ)とルビる。手元の歳時記をめくると、8つほど掲載されたなかでは、岡安仁義の句がいまの私の気分にふさわしい。

 更衣かくて古りゆく月日かな

 何度も繰り返した夏の衣替えである。かつてはパリッと糊のきいた半袖で、夏を迎える気分に逸(はや)ったときもあった。いま、心なしか萎(しお)れたような夏のシャツに袖を通す。そして、今日の日にする衣替えも、あと何回であろう。過ぎてきた歳月をどう顧みたらいいのだろうか、と。

 いまひとつ、女子高生の衣替えを、教壇から詠んだ教師の句はこうである。

  乙女らの胸もえたつや更衣

 

じょしこうせいふく

 解釈するまでもないと思う一句である。夏の衣替えは6月1日。女子高生たちが合服のベストを脱ぐと、教室の中は若い娘たちの香りにあふれ、白いブラウスを透けて胸の盛り上がりが眩しい。彼女たちの愛も恋もこれからだ。あの胸のうちにもえたっているものを、知りたくもあり、知ってはいけないとも思う。それにしても、若さの羨ましいことよ。

 この句、筆記したわけでもなく、記憶が明瞭とも言い難いが、こんなものだろう。作者のキャラクターを知っているので、解釈もこれでいい。作者は花山院親忠(かざんいん・ちかただ:1918~94)、わが母校の国語教師から教頭を経て佐賀県立三養基高校校長で教員生活を退職した。というよりも、退職後奈良春日大社の宮司となったので、そのほうが人口に膾炙しているかもしれない。私が親しくさせていただいたのは、むしろ晩年の宮司時代である。

花山物語

 花山院先生に人生の軌跡など訊ねたことはなかったので、これから記すことは多分に憶測が混じっている。高校時代は華族の傍流くらいに思っていたのだが、調べると精華の花山院侯爵家嫡男だったので驚いた。先生自身、父君が早逝されて幼い侯爵であった時期もあった(1924~47)ようだが、公侯爵の特権である貴族院の終身議員にはタッチの差で就任できなかった。議員資格は30歳からであり、皇族と公侯爵には歳費もない。先生の性格では議員になってもしようがない。むしろ、ならなくてよかったのである。

 花山院家は源平藤橘では藤原氏である。藤原氏は大職冠鎌足を淵源とするが、そもそもはタカマガハラ(高天原)から皇祖ニニギ(瓊瓊杵尊)に随伴してやってきたアマノコヤネ(天児屋命)に遡る。アマノコヤネと妻のヒメは河内枚岡神社の祭神であり、藤原氏の守護神である常陸鹿島神宮のタケミカヅチ(武甕槌命)と下総香取神宮のフッツヌシ(布津主命)ともに奈良春日大社の祭神で、総称して春日大明神となる。詳しくはそれぞれの神社を参照してほしい。

 花山院家は藤原北家の京極摂政師実の次男家忠を家祖として12世紀に興った。家格は精華家で摂家に次ぎ大臣家の上、大臣・大将を兼ねて太政大臣になれる七家の一であった。一条家の家礼(=門流)で家職は笙と筆道と伝わる。「かざんいんではない”くわさんのゐん”なのだ」と称えていた先生は、花山院家第36代の当主にあたる。

 神話は措くとしても鎌足以来1400年、花山院家が興ってからも900年となると、伝承の物語は膨大な量にのぼるであろう。われらが無名にして無告(むこく)を貫いた蒼氓(そうぼう)とは依って立つ地平が異なる。それでも戦後70年、敗戦によって貴族及び彼らが形づくっていた貴族社会は瓦解し、昔をしのぶ余香すらなくなってしまった。もっとも瓦解は外部からの強制の結果ではなく、自壊といったほうが真実と言っていい。

 自壊は権力や財力が乏しくなるとともに始まったのだから、堂上貴族にあっては平安末期からゆっくりと陽が沈みだしたのである。日没までの時間の悠遠さは驚異に値するが、その間貴族たちはただ眠りこんでいたわけではない。時代の波にあるいは抵抗し、あるいは流される。それ俯瞰するのも歴史のおもしろさである。公卿貴族の斜陽から日没までのほぼ900年間は、花山院家の経過した時間と等しい。名門には名門の栄光があり、名門ゆえの悲劇もある。先生のことを記す前に、歴史に遺る花山院家の物語をピックアップしてみたい。

 まずは、その名も『花山物語』。正親町天皇(在位1557~86)ころの物語と装うが、実際は後陽成天皇(在位1586~1611)時代のできごとだった猪熊事件を描いた作者不詳の仮名草紙という。

猪熊事件の顛末

 事件の首謀者は羽林家の権大納言四辻公遠を父とする猪熊教利(いのくま・のりとし:1583~1609)。名字は高倉・山科を経て最終的に猪熊を名乗る。年譜によれば天正13年(1585)叙爵(=従五位下となる)、20年(92)侍従、慶長2年(97)従五位上、慶長5年(1600)に正五位下左近衛少将となる。後陽成帝に仕え和琴をよくし、武蔵権介なども歴任し家康から200石の安堵を受けたとある。この男、自他ともにゆるす天下の美男子で”今光の君よ”とも称され、名うての傾奇(かぶき)者にて髪型や帯の結びの珍奇は、”猪熊様(いのくまよう)なり”と京洛の耳目を騒がせていた。

 なるほど、さもありなん。姉は従三位権中納言上杉景勝の正室菊姫を措いて、側室となり後嗣定勝を産み、産後肥立ち悪く百日余で卒して桂岩院と諡(おくりな)された。妹与津子(よつこ)は後年、後水尾天皇の典侍となって皇子皇女をなした。それが徳川秀忠の娘和子入内の前のことだったので朝幕間の軋轢(あつれき)を生み、後水尾帝の早期譲位につながった(およつ御寮人事件)のである。麗質だけではない、よほど異性を蕩(とろ)かす力をもった血が濃かったのであろう。

 猪熊教利は公卿衆乱行随一の名に恥じないsuper playboyを通した。慶長12年(1607)には女官との不義密通によって勅勘(=天皇の怒り)を蒙り、「改心してこい」と京より追放されたけれど、1年もたたず大坂からもどると、懲りずにまた遊びはじめたのである。

かすがさん

折も折、花山院家では20代となる従四位上左近衛少将忠長(1588~1662)が、御所から下がる公卿町で絶世の美女に出会った。いま京都御所の構内は御所と仙洞御所のほかは、松の翠と玉砂利の広闊にして閑寂な空間となっているが、江戸時代まではぎっしりと公家衆の屋敷が櫛比(しっぴ)していたのである。

その辻で出会った。あまりの美しさに茫然となった。さもあらん、女は宿下がりしていた新大典侍広橋局(しんおおいのすけ・ひろはしのつぼね)。父は名家ながら出頭無双といわれる権大納言広橋兼勝であったが、そんなことより、彼女は禁中第一どころか京一番の美しさと絶賛される明眸皓歯(めいぼうこうし)であった。事実、時の帝の恩寵も授かっていたのである。

そこまでは知らない忠長はのぼせ上がって懸想し、しゃにむに突進していった。まだ20歳である。やんごとなきあたりに侍る人であろうと躊躇(ためらい)はしない、無我夢中である。コネをつけようと探すと、牙医(歯科医)兼安備後なる者にたどり着いた。妹が讃岐(さぬき)という名の命婦(みょうぶ)であって帝のそば近くに仕え、兄妹そろって猪熊教利の遊び仲間でもあったのである。

忠長は兼安を仲介とした文通を手はじめに押しの一手で迫りに迫り、ついに逢瀬(おうせ)をともにすることができた。帝が老齢だったわけではないが、若さムンムンのバイタリティにはかなわなかったのだろうか。典侍とか内侍とかいっても、まだteenagerなのである。そうとなったら教利が指を銜(くわ)えて眺めているはずもない。

「俺もやらせろ」、「いいぜ」。「私もしたい」、「みんなで楽しめばいいのさ」。九重深きあたり無頼のニイちゃんネエちゃんたちが誘い合って、場所を選ぶことなく、臆面もなく、集団で乱倫乱交を繰り広げる結果となった。

処断のあと

 それが発覚した経緯には飛鳥井家と松下家の蹴鞠(けまり)の免許争いがある。その経緯は割愛するが、ともかく松下家の息女である女官が帝の内聞に申し上げた。慶長13年(1608)のことである。事態は即座に逆鱗に触れた。激怒した帝は関係者すべての死罪を主張したが、公家の法に死罪の規定はない。駿河の大御所家康はこれを聞いて、朝廷に介入するチャンスと京都所司代板倉勝重に捜査を命じた。

 慶長14年(1609)7月のことである。慌てて猪熊と兼安は九州に出奔逃亡した。なにしろ、事件に関係した者は多人数である。国母新上東門院も穏便な取り計らいを嘆願している。家康や勝重も、帝の意思のまま処断しては大混乱に陥ることを慮(おもんぱか)った。

 猪熊と兼安は朝鮮渡航を図っていたが、日向延岡藩によって召し捕られ、9月京に押送された。板倉勝重は事件に関与する公卿8人、女房5人及び地下1人の処分を所司代としてを行った。猪熊と兼安は死罪である。

 配流となったのは、薩摩硫黄島が左近衛中将大炊御門頼国(おおいみかど・よりくに)と右近衛少将中御門宗信(なかみかど・むねのぶ)、隠岐が左近衛少将飛鳥井雅賢(あすかい・まさかた)、これらは配流先で死亡。蝦夷松前が花山院忠長(かざんいん・ただなが)、伊豆が右近衛少将難波宗勝(なんば・むねかつ)。難波は軽罪で10年も経ず赦免されたが、花山院は寛永13年(1636)に赦免されながら、帰洛できたのは慶安5年(1652)となった。

へいあんびじん

 新大典侍広橋局、権典侍中院局(ごんのすけ・なかのいんのつぼね)、中内侍水無瀬(ちゅうないし・みなせ)及び菅内侍唐橋局(かんないし・からはしのつぼね)及び命婦讃岐は伊豆新島に配流された。うち新大典侍と菅内侍を除く3名は24年後赦免されたが、2人は切支丹の故をもって八丈島に移されて果てた。

 参議烏丸光広(からすま・みつひろ)と右近衛少将徳大寺実久(とくだいじ・さねひさ)は恩免された。後に烏丸は寛永の三筆の一人となる。10月17日猪熊教利は鞍馬口上善寺において、地下人の兼安備後頼継(かねやす・びんご・よりつぐ)は鴨河原で斬となった。

 烏丸鞍馬口東入ル上善寺門前町にあるこの寺は、京都六地蔵の鞍馬口地蔵や行基作の本尊阿弥陀如来で知られる。余談ながら、私が記憶しているのは別のことである。高校を出て上洛したばかりの4月、ある日の午後この寺の前を歩いていたら、長州人首塚碑があるとの案内があった。見落とすほどのさりげない石柱だったが寺内に入ると、元治元年(1864)7月19日の禁門の変における長州人入江九一(いりえ・くいち)など8名の首塚があった。

 蛤御門から敗走する途中に身に傷を受け、進退如何ともしがたく門前で自刃に及んだのであろうと推測した。ほぼ100年の前である。「京都はこんな路傍にも歴史があるのか」と感動した。入江九一は足軽の子ながら吉田松陰門下の俊秀を謳われた。松陰から「皇国(みくに)のために死ねる男児は君だけだ」と賞揚され、他の塾生とは異なり一途に師を慕い追蹤(ついしょう:後を追いかける)した。当人として散華するに悔はなかったに違いない。上善寺から東に歩くと賀茂川にかかる出雲路橋、両岸絶景の桜並木は師範桜。いや、余談はここまでがいい。

物語拾遺

 権典侍中院局の兄で正二位内大臣まで上り詰めた中院通村(なかのいん・みちむら)が、後水尾帝の武家伝奏となって朝幕間の斡旋に慌ただしく往復していたころ、小田原の海を眺めつつ妹の身を案じて詠んだ歌がある。

  ひく人のあらでや終にあら磯の波に朽ちなん海女のすて舟

 一首は「私の瞼には、捨てられた海女を載せて波間を漂う孤舟が浮かぶ。いつの日か舟をひいて救ってくれる人が現れるであろうか。それとも荒磯に打ちあげられて朽ちてしまうのか。かわいそうに可憐な妹よ、私はいつもお前のことを憂いているのだよ」と。

 権典侍は勅免を得てhappy-endとなったが、新大典侍と菅内侍は朝鮮の人おたあジュリアの手引きによって切支丹に入信したことで、黒瀬戸(黒潮)の流れを越えた先の八丈島に流された。Christian-nameは新大典侍がマグダレナ、菅内侍がマリア。さらに惨(むご)いことに新大典侍は、島の代官の誘いを拒んだために、鼻と耳を削られ首を刎ねられて死んだと伝わる。

 この話は『花山物語』ではなく、スペイン・トレドのイエズス会記録所にある「1619年次報告書」のマカオ駐在神父からの手紙に記されているという。引用元は「愛の旅人 伊豆諸島八丈島」(「朝日新聞」穴吹史士:2005/11/19)である。一方、女房5人はみな勅免によって帰洛したとの話もある。また、切支丹説は眉唾で、新大典侍と菅内侍の2人だけが帝の寵愛を忝くしていたから赦免されなかったとの説もある。不義をした女房となれば逆鱗の直接対象でもあったのだから、そちらの信憑性が濃いと思われる。

まぐだれな

 「なにもしていないわけではない、後宮の奥にも布教の手を伸ばしている」といった、マカオの神父がデッチ上げた逆アリバイ報告かもしれない。マグダレナ(Mag de lena)は聖書にあるマグダラのマリアである。マグダラのマリアはイエスの死と復活を見届けた証人であるが、その位置づけはなお明らかでない。ローマ西方教会では「罪の女」ともいわれる。この場合、罪の女とは娼婦を指す。新大典侍の美貌と性行はマグダラのマリアの名に相応しいのではないか?

 後陽成帝は事件関係者全員の死罪を命じたが、現実の為政者によって握りつぶされた。その失意に譲位を言い出したが、そこでも思い通りにはならなかった。幕府はこの事件を大きく利用して、慶長18年(1613)「公卿衆法度」から20年(1615)「禁中竝公家諸法度」へと、形式においても朝廷への統制を強めていった。

 なお、花山院忠長は事件によって廃嫡となり、弟の定好(さだよし)が花山院家21代を襲い従一位左大臣まで立身した。定好の子の物語を次回に語ることにしたい。

                                       (続)

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花山院家の人々(1) への4件のフィードバック

  1. 扇子忠(せんすただし) より:

    「猪熊事件」に関して、研究しております。そこで、お教え戴きたい点がございます。貴方は、「新大典侍広橋局、権典侍中院局、中内侍水無瀬及び菅内侍唐橋局及び命婦讃岐は伊豆新島に配流された。うち新大典侍と菅内侍を除く3名は24年後赦免されたが、2人は切支丹の故をもって八丈島に移されて果てた」と記述しておられますが、八丈島に流されたのは広橋局と唐橋局の二人だったとはどの文献に記述されていたのでしょうか。先日、八丈島へ行って調べましたが、やはり根拠がつかめませんでした。

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    • TOSHIHIRO IDE より:

      コメントありがとうございます。
      花山院親忠氏が母校の国語教師でした関係で草したものです。先日(3)を書いていちおうの終わりです。なお、引用元は文中に記した「愛の旅人 伊豆諸島八丈島」(「朝日新聞」穴吹史士:2005/11/19)です。ネットからの検索です。信憑性はわかりませんが、新聞社に問い合わせされて原本にあたられたらいかがでしょう? →http://7ten.world.coocan.jp/aaa/ai061.html
      お役に立てず申し訳ありません。

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  2. トーリースーガリ より:

    >わが母校の国語教師から教頭を経て佐賀県立三養基高校校長で
    >教員生活を退職した。というよりも、退職後奈良春日大社の宮司となったので、

    なぜ肝心の鹿島高校を記載しないのですか?

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