虚空の伽藍―豊饒の海

 昨年、竹内結子に引かれて映画『春の雪』を観て(ぶろぐ11/02/06)、原作をもう一度読もうと、あらずもがなに四部作をまとめて買ってしまい「いつかは読まねば」と心に負担を担わせてきたのだが、思うところがあってこの十日ほどで一気通巻に読み上げた。そしたらぶったまげてしまった!

 作品の内容についての驚きよりなにより、本当私は、30数年の昔この作品を読んだのであろうか? 単行本が出るごとに(あのハードカバーの。表紙には鹿が意匠されていたはずの単行本だ)待ちかねたように買って読んだ記憶はあったのだったが…。今回、読みすすめていて、いけどもいけども、過去〈読んだ〉ということが喚起されてこない。初めて読む本としか思えないのである。

細部の描写とかではない、おおまかなストーリーでさえ脱落しているのだ。たとえば『暁の寺』のジン・ジャンの幼少時における本多との謁見の情景とか。「へぇ、そんなんあったんか」と、感心していてはしようがないのだ。

 これはどう了見すればいいのだろう? 老人になって記憶力が衰えたというのだろうか。老人になったことも、記憶力が衰えたことも、否定できない事実ではあるが、それとは種類が違うのだ。どういえばいいのだろう、つまり、時間の懸隔によって作品を読んでの感興がまるで違うのである。

『奔馬』を読んだ後に、「なにかずいぶん書き急いでいる気がするな」と女友達に語ったように思う。そのよって来たる理由を今回考えてみると、輪廻といい転生という「豊饒の海」全巻を貫くidee fixe もしくはLeitmotivについての仏教学の引用説明が煩瑣であったことが原因である。

 いまとなって、〈成長〉したので作品の真の意味するものが理会(=理解会得)できたなどど、小賢しく言うのではない。作品は作者の意図に沿って読まれなければならない宿命など背負ってはいない。西陣の帯を暗幕で使おうと自由というものではないか。

『春の雪』は絢爛たる恋愛絵巻で読んだ。輪廻転生もメルヘンで十分だったのだし、宗教学や哲学といった難解な概念なんかどうでもよかったのだ。『奔馬』の恋愛模様は隣の部屋の線香程度しか匂ってこなかった。『暁の寺』ときては爛れた中年の痴話、『天人五衰』は美少年と醜女あるいは老醜敗残の物語である。———-と思ったのだろう。だからおもしろさが募るわけもない。(と、今度読んでみて思った)。

 正直、「なんでこんなものがライフワークなのか?」との思いがあり、三島由紀夫を文学的存在としか考えられないのに、事件の政治性が作品を撓めていたようにも捉えていたのである。

輪廻と転生というライトモチーフに対峙するという読み方をすれば、すべてが新しい色彩をもって〈燦爛〉と輝くようになったのも無理はない。それは作品を「正当に読む」とかではなく、むしろ「ひねくれて穿った読み方をする」ことなのかもしれない。

今回の“一気通巻”の読後感は〈虚空の伽藍〉といったものである。その意味をこれから考えていく。

TOSHIHIRO IDE について

九州産の黒豚 山を歩きます 乗り鉄です 酒と女を愛したいと思った過去もあります 酒の需要能力は近ごろとみに衰えました 女性から受容していただける可能性はとっくに消失しています 藤沢周平や都はるみが好きです 読書百遍意自ずから通ずであります でも夜になると活字を追うのに難渋しています  
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